ある出版企画の女性は、エッセイは「世の中への批評眼の鋭さ」が決め手と述べた。
そんなことを言われてしまうと、どんなエッセイがいいのか、さっぱりわからなくなる。
もっとも、「エッセイは筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文」(ウィキペディア参照)だから、いいも悪いもない。
しかし、「essai」の原義は「試み」だから、試論を展開するのがエッセイかもしれない。
ところが、玉村豊男の『日常の極楽 (中公文庫)』を読んだところ、エッセイの真髄のようなものが見えてきた。
玉村豊男は、世の中の仕組みのようなものに、関心を寄せ、疑問を持ち、推理している。
玉村豊男は、どんな世の中の仕組みに関心を持ち、何に気づいたのだろうか?
(本の中から抜粋)
”オバサン”に相当する”オジサン”も同じくらいいる。オジサンはオバサンの”男性形容詞”。
なんでもいいからウマイものを食おう、カネはいくらかかってもいい、派手なレストランならなおいい、というのがナリキン(成り金)。
有名人の集まるような店の常連になって、うんちくのひとつもひけらかす、選ばれた少数になることを望むのがスノッブ(紳士・教養人を気どる俗物)。
人間は近代化の過程で、白いもの、柔らかいもの、温かいもの、甘いもの、を求めてきた。(「白柔温甘」)
しかし、いまは、「白柔温甘」の反動として「黒硬冷辛」を求めている。
圧力鍋の中に詰まっているのは蒸気でも圧力でもなく「喪われた母の時間」である。
「自分の家でやっていてもカネにならないことを、他人のところへ行ってやってカネにする」―資本主義を成り立たせている基本的な考え。
昼のディナーが夕方に回り、昼間の(正午近くの)、家族がバラバラになってしまった象徴のような食事をランチと呼ぶようになった。
「ビジネス」という言葉は「忙しさ」と同じこと
「おしゃれ」は「され(晒・曝)」からきたものであるという。
(そんな語源をたどれば)「人の視線にさらされてしだいに洗練されてくるありさま」が゛おしゃれ”ともいえるし、もっと深読みして、「(人の視線にさらされることによって)外面の虚飾をすべて洗いながしたあとに残るエッセンスのようなもの、つまり、粋(いき)のこと」ということもできる。
フランス語では、リビングルーム(居間)のことを、「セジュール」と呼ぶ。直訳すれば「滞在」という意味。
ところが、私たちの場合、リビングはほとんどの場合あまり人が居ず、主婦だけが無聊をもてあましてテレビドラマを見ている゛留守居間”となっていないだろうか。
ヒマがあり過ぎて、持て余すと、人間はロクなことを考えない。……
逆に、まったくヒマのない、仕事に追いまくられるような生活は、人間的ではない。……
つまり、ヒマの虫は、勝手に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)させてもいけないし、殺したり追い出したりしてもいけない。
最後に、著者は「ハレガレからの未来」で、こう語っている。
「極楽は天上にあるのではない。健全な小市民としての日常のささやかな暮らしの中に、私たちは自分にとっての極楽と思えるものを発見していかねばならないのだ」
私たちも、玉村豊男ほどではないが、日常生活の中で世の中の仕組みのようなものを感じ取ることがある。
たとえばAランチとBランチ、コンサートのS席とA席の価格差は価値は見合っているんだろうかと考えることもあれば、マックのセットメニューは本当にお得かなどと考えるときもある。
こんなことを思ったとき、それを組み立て、言葉として表現したのがエッセイかもしれない。
そう考えると、私たちは全員、エッセイストの資格を持っていると言えるかもしれない。
もちろん、玉村豊男と私たちとでは、感じ方の差、思考の組み立て方の差、知識の差は歴然と存在する。
しかし、世の中の仕組みや現象を、自分の頭の中で考え直してみることは、楽しい作業に違いない。リッチな作業とも言える。
ウイスキーグラスやワイングラス片手にということならば、なおさらだ。
本の題名が意味するところとは異なるが、そんな時間に「日常の極楽」があるかもしれない。
1996年初版発行の本であることから、Amazonマーケットプレイスで求める必要がある。