2022.07.17更新
ナチスの強制収容所生活を体験した、『夜と霧』の著者であるヴィクトール・E・フランクルは「生きる意味」を問う。
フランクルは「ロゴセラピー」の提唱者でもある。「ロゴ」はギリシア語の「意味」のことだ。
『夜と霧』には1947年刊の旧版と1977年刊の新版がある。
日本では旧版を霜山徳爾氏が、新版を池田香代子氏が訳し、ともにみすず書房から出版されている。
『夜と霧』の原題を日本語に訳すると『……それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する』となる。
「……」と「:」があるのは、ドイツ語での原題に記されているからである。
『夜と霧』は日本でのタイトルであり、1941年の総統令にナチスがつけた通称だ。その命令は占領地の反ドイツと目された政治家や活動家を連行せよという内容だった。
このことは池田香代子氏が新版の「訳者あとがき」に記している。ちなみに、国によってタイトル名は異なっている。
精神科医であり心理学者であるフランクルはあの悪名名高きナチスの強制収容所を体験した。
本は、地名を聞いただけでもゾッとするアウシュビッツに列車が到着するところから始まる。
だが、著者は数日後にアウシュビッツから支所であるダッハウに移送される。この本の主な内容はダッハウでの収容所体験に基づくものである。ダッハウはドイツにある。
『夜と霧』新版から、「生きる意味」について、著者の問いかけとそれに対する記述を引用したいと思う。
人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか
人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか
ー あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
ー 人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
ー 人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
著者は精神的にまた人間的に脆弱な者が、その性格を展開していくなかで収容所世界の影響に染まっていくのを見てきた。
彼らは内的なよりどころを持たなかった。彼らの内面生活は追憶をこととするようになり、未来の目的によりどころをもたなかった。
内的なよりどころを見つけるためのヒントは「生きることが私たちからなにを期待しているか」という言葉ではないだろうか。
著者は「生きることにもうなんにも期待が持てない」と言う二人の収容者へ、「生きることは彼らから何かを期待している、生きていれば未来に彼らを待っているなにかがある」と伝えている。
二名のうち一名は愛する子供であり、もう一名は仕事だった。
すなわち、著者の言葉を借りれば「生きることはけっして漠然としたなにかではなく、生きることはつねに具体的ななにかであって、生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的」なのである。
私たちを待っている「なにか」が生きる意味なのではないだろうか。
この「なにか」はひとりとして同じ人はいない。
だからこそ、生きる意味があるのではないだろうか。
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