「アンヂェラス」のケーキ

「アンヂェラス」のケーキ

 

私が書いた「ミカワヤ」のケーキの記事に、毎日、訪ねてくれる人がいる。
(記事 http://goo.gl/X3EJKB 参照)
「ミカワヤ」のケーキは、いつまでも浅草の人の心に消えないで残っているからだ。
私は、「お世話になったから」「気をつかってもらったから」と言っては、お返しの「ミカワヤ」のケーキを持って歩くおかあさんのことを『浅草のおかあさん』第8話で書いた。
ただ、その中で、私は「ミカワヤ」のケーキと同じくらい「アンヂェラス」のケーキのことも書いている。
「ミカワヤ」のケーキと「アンヂェラス」のケーキ。両者の趣きは異なるが、共に浅草を代表するケーキであり、片方の存在なしには語れないところもあるのだ。
「ミカワヤ」と「アンヂェラス」がオレンジ通りに並んであったということも、いまから考えると、ものすごく不思議な感じがするのだが、その光景は、なぜか浅草の街に合っていた。

 

「アンヂェラス」はいまでも健在だ。
私は「アンヂェラス」のケーキの中でも、店の名をとった『アンヂェラス』を、みなさんに食べてもらいたいと思っている。
『アンヂェラス』はクリスマスの薪の形をしたノエルだが、外側をホワイトチョコレートで包んだものとミルクチョコレートで包んだものと二種類あり、共にバタークリームをベースにしているミソだ。
フォークを当てたときのパリッとした感覚がたまらない。
その味は、何十年も経っても、いっこうに変わらない。
私は、その味が忘れなくて、いまでも、浅草に行っては『アンヂェラス」を買っている。

 

この『アンヂェラス』を食べると、古きよき浅草の世界にかえったというか、自分の青春時代にかえったというか、なつかしさがこみあげてくる。
自分はその時代にたしかに浅草にいた! という感覚にもなるし、浅草の街が私を育ててくれたという思いまで私の胸を襲ってくる。
考えてみれば、時間を遠く経ても、変わらずおいしいということは、すごいことではないだろうか。
これが浅草の真骨頂のようなものであり、浅草の自慢なのだ。「小柳」の鰻、「三定」の天ぷらをはじめ、浅草の老舗の食べ物は、みんなそんな浅草の特徴のようなものを持っている。

 

「アンヂェラス」は、川端康成先生、池波正太郎先生、漫画家の手塚治虫先生が通った店として知られている。昭和21年創業の歴史ある店なのだ。
先日、「アンヂェラス」に行き、名物の水出しコーヒー「ダッチコーヒー」にケーキを頼んだ。
奥のテーブルに、ひと目で浅草のおかあさんたちとわかる四人組が、やはり「ダッチコーヒー」にケーキを頼んで談笑していた。
なぜ、ひと目で浅草のおかあさんとわかるのか?
浅草のおかあさんたちの顔は、ちょっときついが、端正だからだ。
「これも、浅草自慢の一つだ」と思い、微笑んでしまった。

 

 

 

店の名物『アンヂェラス』

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

浅草のおかあさん
浅草のおかあさん

本の目次

スマホで読む方法

 

 

 

2018年6月16日

浅草おかみさん会の「勇気!」「やる気!」「元気!」

浅草おかみさん会の「勇気!」「やる気!」「元気!」

 

「浅草おかみさん会」会長冨永照子さんのことを知らない浅草っ子はいない。

 

冨永照子さんは2001年に『おかみさんの経済学』という本を書いている。
中古でしか手に入らなくなった本だが、この本を読むと、いまの浅草の繁栄の原点がくっきりと浮かび上がってくる。

 

昭和55年に浅草で「サンバカーニバル」が始まった。
昭和56年には、浅草ー上野間で2階建てバスが走った。
昭和61年に浅草六区に「ROX」が建った。
昭和62年に、ニューオリンズジャズを呼んだ。
平成2年に営団浅草駅の地下広場に壁画が作られた。
平成6年「振袖学院」が設立された……。

 

これらは関係各位の努力により生まれたものだが、すべてに、冨永照子さんはじめ「浅草おかみさん会」が深く関わっているのだ。いや、「浅草おかみさん会」がなかったら実現しなかったと言っていい。

 

 

本にも書かれていたが、浅草は昭和39年の東京オリンピックを境にみるみる衰退していった。
テレビが普及し始めたからだ。それまでの浅草は六区の映画娯楽を中心とした街だったから影響をまともに受けた。
オリンピック以前は、「浅草で映画でも観るか」と人は集まり、映画を観た人は観音さまにお参りし、おいしいものを食べ、お土産を買って帰っていったのだ。
テレビの普及とともに、若者文化というようなものも生まれた。渋谷、新宿で遊ぶことがかっこいいことになり、若者は浅草には見向きもしなくなった。

 

そんな浅草のさびれている姿を、私は体で記憶している。
夜、仲見世の商店街が早く閉まり出した。私は悔しくて親にかみついた。
正月も三が日を過ぎると、潮のように人が引いていった。三社祭が終わった後もそうだった。
私は無念でたまらず、寂しくなった観音さま境内を一人で歩き回った。
六区では、歩く人もまばらになった。
吾妻橋や駒形橋の欄干に手を乗せれば、埃だらけだった。
街中、すすけてしまったのだ。

 

 

ところが、その後、「浅草でサンバをやるぞ」という話が飛び込んできた。「そんなバカな」と誰もが信じなかった。立て続けに「浅草でロンドンバスが走るぞ」という話も舞い込んできた。
「ニューオリンズジャズをやるぞ」という話も聞こえてきた。「なんだい、そのニューオリンズジャズって?」とみんなが言った。
このころから、浅草は、なんだかわからないが、「何か」をやる街に変身していったのだ。
それが、この本に書かれていることだ。

 

もちろん、「そんなもの浅草に合うか!」という声も起きた。「だから、おまえの頭は固いっていうんだ」という声も飛び交った。
いままでは議論する材料もなかったが、このころから、浅草の人はしきりに議論し、言い合いをするようになった。
議論、言い合いは、浅草が本家本元のようなものである。お家芸だ。
こんな議論、言い合いをすることにより、浅草に活気がよみがえってきた。大江戸以前からのプライドが首をもたげた。

 

 

いまにしてみれば、すべて、やってよかったのだ。
いまの浅草の繁栄ぶりが、それを示している。街も見違えるほどきれいになった。
若いカップルも楽しそうに浅草の街を歩き、外国から来た観光客も心から楽しそうだ。街中が、楽しそうな人でごった返している。
2020年の東京オリンピックで日本を訪れた観光客の目玉になることは間違いない。
そんな風格も、浅草は十分身に付けた。

 

だが、いまの浅草に至る道は険しかったに違いない。
この本を読むと、「浅草おかみさん会」はじめ、浅草のために尽力した人の労苦を思い胸が熱くなってくる。

 

 

「浅草おかみさん会」は、「浅草観光案内図」の看板作成から始めた。
自分たちが、いま、できることから始める。ここが重要だったのだ。
この看板作成がなかったら、「浅草おかみさん会」のその後も、浅草のその後もなかったかもしれない。
要は、どんなときも、「やるか」「やらないか」の選択肢しかないのだ。
そして、「ローマは一日にして成らず」だ。
そのとき、そのときで、できることをやった結果がいまの浅草なのだ。

 

 

驚くことに、冨永照子さんは、本を書いた当時、21世紀のことをこう予言している。
「21世紀は、『競争』を越えて、『協創』の時代よ。つまり、力を合わせて新しいものを創り出さなきゃいけない時代なの。そして、それには、女性の感性や特性が、とっても重要になると思うのよ」

 

それから17年あまりの月日が経つが、まさに、いま課題になっていることではないか。
冨永照子さんの慧眼(けいがん)に、恐れ入ったとしか言いようがない。

 

「浅草おかみさん会」には真実が詰まっている。
「浅草おかみさん会」のモットーである「勇気!」「やる気!」「元気!」である。
世の中、どんな理屈をこね回しても、どんなに難しいことを言ったとしても、最終的には、「勇気」「やる気」「元気」しかないではないか。
逆に言えば、「勇気」「やる気」「元気」さえあれば、ことはなるのである。
「浅草おかみさん会」のパワーをもらい、頑張っていこうではないか!

 

 

最後に、なぜ「浅草おかみさん会」なのか説明しておきたい。
私は拙著『浅草のおかあさん』の冒頭で、
「浅草といえば、伝統の技や芸を守り抜いている男衆に目が行きがちだが、そんな男たちを支えてきたのは、他ならぬこのおかあさんたちである」
第14話「浅草の夫婦」で、
「普段は威勢がいいが、いざというときに意気地がなくなる男と、どんな相手にもけっして動じない女との組み合わせ、これが浅草の夫婦である」
と書いた。
浅草では、最終的には、おかあさんが「やる」と言ったらやる。おかあさんが「やらない」と言ったらやらないのだ。
もちろん、浅草の亭主たちは口を出す。しかし、日頃、商売を支えてくれているのは、おかあさんたちだという負い目もあって、最終的には「おまえの好きなようにしろ」になってしまうのだ。
そんなおかあさんたちは、けっして楽ではない。自分が決めたことは、自分で責任を持たなければならない。だから頑張るのである。

 

 

「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性は、突然旅立ってしまった。
お通夜は弔問客でごった返した。
お清めの料理を、冨永照子さんが経営する「十和田」が出してくれたことを、感謝と共に、申し述べておきたい。

 

綾小路亜也

 

 

 

おかみさんの経済学―女のアイデアが不景気をチャンスに変える! (角川oneテーマ21)

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

2018年6月8日

隅田川舟下り

江戸末期から明治にかけて、風物悦楽とされた隅田川の屋形船遊びに行ってきました。

 

永井荷風など隅田川に架かる橋と川面を見つめた作家は多くいます。
エッセイ『浅草のおかあさん』の舞台の一つにもなっています。

 

 

川面は、見る人により、見る時代によってまったく違って見える。
いまの川面を見つめている人もいれば、過ぎ去った日の川面を見つめている人もいる。
橋の上に立つと、さびしさと切なさを上塗りするような感覚になる人もいる。
「浅草のおかあさん」もその一人だった。
(『浅草のおかあさん』それぞれの隅田川 から)

 

 

 

隅田川屋形船は、ゴールデンウイーク後半に間に合うかもしれません。これからの季節、川面を流れる風にあたるのも爽快です。
予約状況を確認してください。

 

(参考)
「浅草屋形船 船宿あみ清」 http://www.amisei.com/

 

画像集「浅草のおかあさんの舞台を訪ねて」 http://shinyuri-souken.com/?page_id=47471

 

 

 

浅草「吾妻橋」のたもとから乗船する

 

 

 

隅田川に架かる橋はどれも美しい

 

あつあつの天ぷらを足してくれる。(飲み放題)

 

船から上がったところは浅草。(左手に「神谷バー」、右手に「松屋浅草」が見える。

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

2018年5月1日

『伝説の女傑 浅草ロック座の母』

 

伝説の女傑 浅草ロック座の母 伝説の女傑 浅草ロック座の母
齋藤 智恵子

竹書房 2017-11-17

Amazonで詳しく見る by G-Tools

「徳」にはいろいろな意味がある。
精神の修養を指す場合もあるし、神仏などの恩恵、めぐみを指す場合もある。
また、富とか財産を指す場合もあるし、生まれつき備わった天性を指す場合もある。
そんなことを総合的に考えると、本の著者であり主人公でもある齋藤智恵子さんは、浅草一、徳のあった人かもしれない。

 

著者は、いささか遅いが、35歳のときに踊り子としてデビューする。
しかし、初舞台からなんと2ヶ月後には、一座を率い北海道遠征し、37歳のときには蓄えたお金で佐野の劇場、翌年には仙台と上山田の劇場を購入し、44歳のときには、全国で20の劇場を経営するまでに至る。

 

そして、著者は昭和47年、46歳のときに、ついに浅草ストリップ劇場の発祥である名門「ロック座」の経営権を獲得する。
この本では「本丸」という章が設けられているが、もちろん「ロック座」の意味である。
著者の、そのときの思いが伝わってきそうである。

 

人の運命、人との縁を考えるとき、著者の「ロック座」取得は大きな意味を持つ。
著者は「ロック座」の主となって、「ロック座」の興行をストリップ1本にした。
その結果、「ロック座」の座長だった深見千三郎や兼子二郎(のちのビートきよし)は、「フランス座」に移った。
そして、その年に「フランス座」の門をたたいたのは、ビートたけしである。
ビートたけしー深見千三郎という縁はこうして生まれたのである。

 

だが、人と人を結ぶ縁は複雑に絡み合っていて、ビートたけしに映画『座頭市』制作を頼んだのは、他ならぬ著者であり、ビートたけしを最も愛したのも著者である。
本中に、「母の日に心を込めて”ありがとう”を贈ります」とメッセージが書かれたビートたけしから贈られた花束を背にした著者の写真が載っているが、著者の笑顔は幸せいっぱいである。
著者のことを「お母さん」とビートたけしは呼んでいた。

 

そして、映画『座頭市』を切り口にした縁もある。
勝新太郎が『座頭市』を制作する際に、資金が足りなくて手形保証を著者にお願いしに来た。
このお願いは、以前、勝新太郎の実兄若山富三郎が、著者にお金を借りたことと、もちろん関係がある。
著者は、こうしたことから若山富三郎と勝新太郎とも親交が厚かったのである。

 

 

著者が経営者として成功を納めたことは言うまでもない。
著者が気丈だったことは間違いないが、人との縁も非常に大事にしたのではないかと思えるのだ。
また、お金に対しても確固たるものを持っていたと思う。

 

著者は、本中でこう言っている。
「もちろん、お金は使うためにあります。でもそれは使わなきゃいけない時に必要なだけ使うということです。
(略)『ここぞ』というのは、いろんな場合があります。商売の勝負時はもちろんですし、誰かへのプレゼントかもしれません。大事なことは自分のために使わないことです。仕事のためか、誰かのために使うことです。自分のためにばかり使っている人は貯まりませんし、第一お金が回ってこないものです」

 

著者は、平成28年(2016年)11月11日に90歳になり、卒寿という人生の節目に、この本を書いた。
著者お気に入りの地である信州上山田のホテルで卒寿を祝う盛大な会が開かれた。
しかし、翌春、ご逝去された。
著者は生涯、人との縁を大事にし、芸人や困っている人を助け続けた人である。
心よりご冥福をお祈りしたい。

 

 

伝説の女傑 浅草ロック座の母

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

 

2018年1月14日

『浅草ー土地の記憶』

浅草―土地の記憶 (岩波現代文庫―文芸) 浅草―土地の記憶 (岩波現代文庫―文芸)
山田 太一

岩波書店 2000-01-14

Amazonで詳しく見る by G-Tools

著者は巻末で「土地の歳月に比べれば一人の記憶は、ほんとうに短い間のことである。それも書き残す人間がいなければ、見る見る闇に消えていく。幸い浅草は、ほぼ連続して、書き手を得てきている」と述べている。

 

この本は、さまざまな人の浅草の記憶を集めたものである。
年代もさまざまだから、あたかもリレーのようにつながっていく。
リレーのようにつながっていくから、それは土地の記憶ということになる。秀逸な本のタイトルである。

 

浅草を知る上で欠かせない本である。
幕末~明治、明治~大正、戦前戦後の浅草の記憶をさまざまな人が描いている。
その人たちは、浅草の記憶を本や雑誌、新聞などに残していた。

 

 

いくつかの人の浅草の記憶を紹介しておきたい。

 

「金龍山浅草寺」 寺門静軒(儒学者・随筆家)(記載年月 天保三年・1832年)
寺門静軒はかの有名な『江戸繁昌記』を書いた人である。当然と言えるが、その『江戸繁昌記』に「金龍山浅草寺(浅草観音)のこと」と紹介している。

 

「名高かった店などの印象」 高村光雲(彫刻家)(昭和四年・1929年)
久米平内について、かなり詳しく紹介している。

 

「新門辰五郎」 矢田挿雲(新聞記者・作家)(大正九ー十二年)
新門辰五郎について書かれている最も詳しい記事の一つではないだろうか。

 

「ラ・サクラ」 ピエール・ロチ(フランス海軍将校)(1889年)
外国の人が見た観音さま内部の描写が興味深い。

 

「浅草十二階の眺望」 田山花袋(小説家)(大正十二年・1923年)
関東大震災で崩れてしまった凌雲閣だが、遠景まで一望できたことがよくわかる。

 

「米久の晩餐」 高村光太郎 (大正十一年・1922年)
千束にある有名な、すき焼きや「米久」の光景。この詩は他の本でも紹介されることが多い。

 

六区展望(『浅草底流記』より)添田啞蝉坊 (昭和五年・1930年)
「浅草は論理の世界ではない。実行の世界である。具体の境地である」と同氏は言う。
「大ジメ師(香具師の親分のような存在)の漫談」「路傍のキンケン奨励」がおもしろい。

 

「浅草」 川端康成 (昭和五年・1930年)
同氏は「浅草には一流のものが何一つない」と言う。
実は、ここが浅草の魅力だと私は思う。この部分が、浅草ファンにはたまらないのである。

 

また、「人々が階級を忘れ、はらわたをさらけ出すほどに、人間の渦巻きである。浅草には論理がなく、実行がある。分析など及びもつかない」と言う。添田啞蝉坊と同じようなことをいっていることが興味深い。

 

「浅草悲哀」(あさくさエレジー) サトウハチロー (昭和六年・1931年)
「浅草の不良少年」サトウハチロー氏の詩である。「うはべは笑って心で泣いて あたしや悲しい浅草ムスメ」明るく振る舞う浅草ムスメの本当の姿である。
サトウハチローだから、その気持ちがわかるのだろう。

 

「紅団のあのころ」 望月優子 (昭和30年・1955年)
同氏は、なんと川端康成氏の『浅草紅団』の舞台となったカジノ・フォーリーのレヴューに出ていたのだ。
川端康成氏はカジノ・フォーリーの楽屋の常連で、「万盛庵」に連れて行ってもらったこと、自宅に泊まりに行ったことが記されている。

 

(紹介 綾小路亜也)

 

 

浅草―土地の記憶 (岩波現代文庫―文芸)

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

2017年12月7日

パンのペリカンの本を見つけた!

パンのペリカンの本を見つけた!

 

商品は、食パンとロールパンだけ。それでも行列ができ、昼には売り切れる店。
それが、浅草は寿町にあるパンのペリカンだ。

 

ペリカンのパンについては、いろいろな人がいろいろな表現をしているが、まずは食べてみることだ。
口に入った瞬間、「いつも食べているパンとは違う!」と思うはずである。―そんな感覚を持つのがペリカンのパンなのである!

 

なぜ食パンとロールパンだけの店となったかは、二代目店主である渡辺多夫(かずお)氏のポリシー、ペリカンが業務用パンだったことと深く関わっている。
それについては、私が前に書いた記事「パンのペリカン」 http://shinyuri-souken.com/?p=24046 を参考にしてもらいたい。

 

ところが、である。
最近、パンのペリカン4代目店主である渡辺陸氏が書いた本を見つけた。

 

この本の構成は下記のようになっている。

第1章 不思議なパン屋

第2章 ペリカンの歴史

第3章 おいしさのひみつ

第4章 浅草とパン

第5章 100歳のペリカン

第6章 ペリカンとわたし

第7章 ペリカンを食べる

 

 

この本には、浅草ファンにはたまらない発見がある。

ペリカンのケーキ店が千葉の松戸に3店舗あったこと
浅草のオレンジ通りと雷門仲通りにあったケーキ店「ミカワヤ」とペリカンは、なんと親戚同士だったこと
ペリカンのパン粉は、とんかつで有名な「すぎ田」で使われていること
昔、赤坂にあったレストランシアター「ミカド」で使われていたこと……を知る。

 

著者は、「器用さと丁寧さ」の中で、
「効率と丁寧さだと、丁寧さのほうが大切だと思っています。
効率のよさは指摘すればどうにかなります。効率のよさを教えるのは簡単です。
でも丁寧さというのはなかなか説明しづらい」と述べている。

 

いま、世の中は、効率を追い求めていることに終始している、その中にあって、丁寧さを追求していることが、ペリカンのパンの秘密かもしれない。

綾小路亜也

 

 

パンのペリカンのはなし

 

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

『新版 史跡をたずねて―下谷・浅草ー』

『新版 史跡をたずねてー下谷・浅草』

 

浅草文化観光センターで購入した。
台東区が発行した本だが、この本には、上野・浅草の史跡、文化財がずらりと載っている。史跡のガイドブックと考えてもらえばいい。
そして、初版の昭和59年から平成18年に至るまで、なんと10刷を重ねている。
それだけ、下谷・浅草の史跡を知りたいと思っている人は多いのかもしれない。

 

この本の目次は、上野公園とその周辺、谷中、下谷北部、浅草公園とその周辺、浅草南部、浅草北部とに大別されている。
浅草が3地域あるところを見ると、浅草には、いかに史跡が多くあるのか窺える。

 

 

浅草公園とその周辺で、あまり他の本には記載されていないがこの本に掲載されている史跡を紹介すると、

浅草寺境内にある「西仏板碑(さいぶついたび)」「一葉観音菩薩像」「瓜生岩子象(うりういわこぞう)」「算子塚(さんしづか)」
伝法院庭園の中の「至徳の古鐘(しとくのこしょう)」「天祐庵」「浅草寺の石棺」、裏門前の「乾什、楼川(かんじゅうろうせん)の句碑」
浅草神社裏手の「山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)」

がある。

 

そして、浅草北部となると、待乳山聖天あり、今戸神社あり、山谷堀、猿若三座、吉原と有名な寺院や神社、史跡がずらりと並ぶ。

 

見落とされがちになるが、浅草南部にも「岡崎屋勘六の墓」「佐野善左衛門政言墓(さのぜんざえもんまさことのはか)」「谷文晁墓(たにぶんちょうはか)」「玉川兄弟の墓」「斎藤茂吉歌碑」「はなし塚」「小林清親墓」「葛飾北斎墓」「三味線堀跡碑」「浅草御蔵跡碑」「浅草文庫碑」『首尾の松」……などの史跡が多くある。

 

そんな浅草史跡巡りに、この本は欠かせないものとなる。

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

『絵と写真でたどる 台東の文化と観光』

『絵と写真でたどる 台東の文化と観光』

 

浅草文化観光センターに行って、購入したものである。
台東区の発行であり、台東区発足60周年記念として出版されているだけに、貴重な写真と画が掲載されている。

 

もちろんこの本には、上野・浅草を中心とした台東区の文化と歴史が掲載されている。
だが、この本を見ていると、リアルに昔の浅草の姿が蘇ってくる。

 

浅草公園に「パノラマ館」や「人造富士山」があったことは、本を読んで知ってはいたが、はたしてどのようなものだったのかは、なかなかイメージできないでいた。
しかし、この本にはパノラマ館や人造富士山の写真で載っていた。おかげで、「こういうものだったのか」とわかった。なんと、人造富士山は張り子だったのだ。

 

その他、「花やしき」「水族館」「浅草十二階と大池、遊楽館」「浅草公園の噴水」「市村座」「宮戸座」「酉の市」も写真で掲載されていた。
「水族館」は川端康成先生の『浅草紅団』の舞台の一つともなっているが、それを写真で見たのは初めてだった。

 

「仲見世の今昔」がいい。
明治20年代、30年代、44年、大正13年、大正末ごろ、昭和初期、昭和7年、8年、10年代、終戦後と、時代を追って写真はがきが掲載されている。
仲見世を往来する人の姿もはっきりと確認でき、その時代に入り込んでしまったような錯覚になる。

 

「浅草公園六区の今昔」でも、明治期、明治末期、大正13年、大正末期、昭和6年、10年、13年の六区の写真が掲載されている。
この写真には「電気館」「千代田館」「日本館」「オペラ館」「帝国館」「遊楽館」「富士館」「三友館」「大盛館」「キネマ倶楽部」がはっきりと写っている。これで本で得た知識と実際の姿が結びついた。
六区を歩いている人の姿も確認できる。

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

『すみだ川・新橋夜話 他一篇』

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫) すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)
永井 荷風

岩波書店 1987-09-16

Amazonで詳しく見る by G-Tools

主人公長吉の芸妓になった幼馴染お糸への思いを、隅田川両岸を舞台に、詩情豊かに描いた名作。
浅草を愛した文豪永井荷風は、何を描きかったのだろうか。

 

このことは、著者の訪欧と関係がある。『すみだ川』に描写された人物や光景は明治三十五、六年の頃のものだが、著者はその後、訪欧し6年ぶりに東京に帰ってきた。その月日の間に、東京も隅田川を取り巻く光景も変わってしまっていたのである。

 

著者は『第五版すみだ川之序」でこう述べている。
「隅田川はその当時目のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝えていたさまざまの伝説の美とを合せて、言い知れぬ音楽の中に自分を投げ込んだのである。……
自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である」

 

そして、この小説は意外な終わり方をしている。
推測にはなるが、著者はその後に展開されるストーリーが読めてしまったから、読めたストーリー通りにしたくないがために、展開を別の方向に持っていき結んでしまったように思えて仕方がないのだ。

 

 

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)

 

 

 

 

浅草には「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性がいました

スマホで読む方法

 

 

出世・就職に行き詰まったら、「被官稲荷」に行けば上手くいく

出世・就職に行き詰まったら、「被官稲荷」に行けば上手くいく

 

「被官稲荷」(ひかんいなり)という、一風変わった名前の稲荷がある。
三社祭で有名な三社さま(浅草神社)の横にひっそりと立っている。
「被官」は官を被る(こうむる)と考えてもらいたい。つまり、就職・出世にご利益があるということになる。

 

「被官稲荷」は幕末の町火消であり、侠客であり、浅草寺門番でもあった新門辰五郎が女房の病気が治るようにと山城(京都府)の伏見稲荷に祈願して、全快したお礼に建てた稲荷である。「新門」は伝法院新門の門番であったことに由来する。

 

なぜこの稲荷を「被官稲荷」と呼ぶのかは、実は明らかになっていない。浅草神社の公式HPも名称の由来は不明としている。

 

しかし、浅草生まれで浅草育ちの私には、いくぶん、新門辰五郎の気持ちもわかるような気がする。
町火消が、浅草寺の門番に抜擢されるということは、並大抵のことではないからだ。また、そこには門番というイメージとはまったく異なった権威の裏付けがある。

 

そして、新門辰五郎は上野寛永寺の覚王院義覚僧正から、浅草寺の掃除方も頼まれた。浅草寺は東叡山の管轄に属していたからである。掃除方は風紀上の取締役であるから、境内の商人や香具師(やし)に対して絶対な権限を有した。(矢田挿雲 昭和4年の『報知新聞』の記事参照)
すなわち、一介の町火消だった新門辰五郎が、公職の冠をいただくということは、当時は想像を絶することであり、有難さ、誇りといったものを表したのが名前につながったのではないかと、私は考える。

 

 

私は「被官稲荷」におまいりすることは、別の意味もあると思っている。
出世や就職に行き詰まったときに、効果があると思っている。
行き詰まるということは、打つ手、策が思いつかないということではないだろうか。
そんなときは、いくら考えても策は浮かばない。

 

そんな状態は、気分転換が必要なことを意味している。
そこで、気分転換がてら、浅草見物を兼ね、「被官稲荷」を訪ねるという意味が生まれる。
意外に閃くものがあるかもしれない。

 

たしかに、出世にも、昇進にも、就職にも、仕事や営業にも、コツやカラクリのようなものは存在する。
そんなものを知りたい人は、私が書いた本などを参考にしていただきたいが、多くの人は、そのコツやカラクリに気がつかないだけである。私がそんなものを知ったのも、ずっとあとからである。
「被官稲荷」に行って、気分を変えることにより、そんなコツやカラクリのようなものに気づくかもしれない。

 

そして、「被官稲荷」におまいりすることは、神頼みという手かもしれないが、策の一つではないか、と私は考える。
そんな策でも、一手を講じたということが、自分の心を楽にするし、自信にもつながっていくと考える。

 

突き詰めて考えれば、どの策が当たるかなんていうことは、誰もわからない。
重要なことは、策を次々と思い浮かべ、実行に移すことではないかと思う。
「やり足りていないこと」を思い浮かべ、消し込んでいくことが、出世にも就職にも、そして成功にもつながっていくと、私は考えるのである。

 

綾小路亜也

 

 

鳥居に新門辰五郎の名が刻まれている

 

「被官稲荷」

 

 

 

こっそり読まれています
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!

本の目次

スマホで読む方法

 

 

「被官稲荷」はエッセイ『浅草のおかあさん』の舞台にもなっています

スマホで読む方法