浅草探訪

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浅草を楽しむ! 浅草から学ぶ!

パンのペリカンの本を見つけた!

パンのペリカンの本を見つけた!

 

商品は、食パンとロールパンだけ。それでも行列ができ、昼には売り切れる店。
それが、浅草は寿町にあるパンのペリカンだ。

 

ペリカンのパンについては、いろいろな人がいろいろな表現をしているが、まずは食べてみることだ。
口に入った瞬間、「いつも食べているパンとは違う!」と思うはずである。―そんな感覚を持つのがペリカンのパンなのである!

 

なぜ食パンとロールパンだけの店となったかは、二代目店主である渡辺多夫(かずお)氏のポリシー、ペリカンが業務用パンだったことと深く関わっている。
それについては、私が前に書いた記事「パンのペリカン」 http://shinyuri-souken.com/?p=24046 を参考にしてもらいたい。

 

ところが、である。
最近、パンのペリカン4代目店主である渡辺陸氏が書いた本を見つけた。

 

この本の構成は下記のようになっている。

第1章 不思議なパン屋

第2章 ペリカンの歴史

第3章 おいしさのひみつ

第4章 浅草とパン

第5章 100歳のペリカン

第6章 ペリカンとわたし

第7章 ペリカンを食べる

 

 

この本には、浅草ファンにはたまらない発見がある。

ペリカンのケーキ店が千葉の松戸に3店舗あったこと
浅草のオレンジ通りと雷門仲通りにあったケーキ店「ミカワヤ」とペリカンは、なんと親戚同士だったこと
ペリカンのパン粉は、とんかつで有名な「すぎ田」で使われていること
昔、赤坂にあったレストランシアター「ミカド」で使われていたこと……を知る。

 

著者は、「器用さと丁寧さ」の中で、
「効率と丁寧さだと、丁寧さのほうが大切だと思っています。
効率のよさは指摘すればどうにかなります。効率のよさを教えるのは簡単です。
でも丁寧さというのはなかなか説明しづらい」と述べている。

 

いま、世の中は、効率を追い求めていることに終始している、その中にあって、丁寧さを追求していることが、ペリカンのパンの秘密かもしれない。

綾小路亜也

 

 

パンのペリカンのはなし

 

 

 

『新版 史跡をたずねて―下谷・浅草ー』

 

 

浅草文化観光センターで購入した。
台東区が発行した本だが、この本には、上野・浅草の史跡、文化財がずらりと載っている。史跡のガイドブックと考えてもらえばいい。
そして、初版の昭和59年から平成18年に至るまで、なんと10刷を重ねている。
それだけ、下谷・浅草の史跡を知りたいと思っている人は多いのかもしれない。

 

この本の目次は、上野公園とその周辺、谷中、下谷北部、浅草公園とその周辺、浅草南部、浅草北部とに大別されている。
浅草が3地域あるところを見ると、浅草には、いかに史跡が多くあるのか窺える。

 

 

浅草公園とその周辺で、あまり他の本には記載されていないがこの本に掲載されている史跡を紹介すると、

浅草寺境内にある「西仏板碑(さいぶついたび)」「一葉観音菩薩像」「瓜生岩子象(うりういわこぞう)」「算子塚(さんしづか)」
伝法院庭園の中の「至徳の古鐘(しとくのこしょう)」「天祐庵」「浅草寺の石棺」、裏門前の「乾什、楼川(かんじゅうろうせん)の句碑」
浅草神社裏手の「山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでんつくえづかのひ)」

がある。

 

そして、浅草北部となると、待乳山聖天あり、今戸神社あり、山谷堀、猿若三座、吉原と有名な寺院や神社、史跡がずらりと並ぶ。

 

見落とされがちになるが、浅草南部にも「岡崎屋勘六の墓」「佐野善左衛門政言墓(さのぜんざえもんまさことのはか)」「谷文晁墓(たにぶんちょうはか)」「玉川兄弟の墓」「斎藤茂吉歌碑」「はなし塚」「小林清親墓」「葛飾北斎墓」「三味線堀跡碑」「浅草御蔵跡碑」「浅草文庫碑」『首尾の松」……などの史跡が多くある。

 

そんな浅草史跡巡りに、この本は欠かせないものとなる。

 

 

 

『絵と写真でたどる 台東の文化と観光』

 

 

浅草文化観光センターに行って、購入したものである。
台東区の発行であり、台東区発足60周年記念として出版されているだけに、貴重な写真と画が掲載されている。

 

もちろんこの本には、上野・浅草を中心とした台東区の文化と歴史が掲載されている。
だが、この本を見ていると、リアルに昔の浅草の姿が蘇ってくる。

 

浅草公園に「パノラマ館」や「人造富士山」があったことは、本を読んで知ってはいたが、はたしてどのようなものだったのかは、なかなかイメージできないでいた。
しかし、この本にはパノラマ館や人造富士山の写真で載っていた。おかげで、「こういうものだったのか」とわかった。なんと、人造富士山は張り子だったのだ。

 

その他、「花やしき」「水族館」「浅草十二階と大池、遊楽館」「浅草公園の噴水」「市村座」「宮戸座」「酉の市」も写真で掲載されていた。
「水族館」は川端康成先生の『浅草紅団』の舞台の一つともなっているが、それを写真で見たのは初めてだった。

 

「仲見世の今昔」がいい。
明治20年代、30年代、44年、大正13年、大正末ごろ、昭和初期、昭和7年、8年、10年代、終戦後と、時代を追って写真はがきが掲載されている。
仲見世を往来する人の姿もはっきりと確認でき、その時代に入り込んでしまったような錯覚になる。

 

「浅草公園六区の今昔」でも、明治期、明治末期、大正13年、大正末期、昭和6年、10年、13年の六区の写真が掲載されている。
この写真には「電気館」「千代田館」「日本館」「オペラ館」「帝国館」「遊楽館」「富士館」「三友館」「大盛館」「キネマ倶楽部」がはっきりと写っている。これで本で得た知識と実際の姿が結びついた。
六区を歩いている人の姿も確認できる。

 

 

 

 

『すみだ川・新橋夜話 他一篇』

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫) すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)
永井 荷風

岩波書店 1987-09-16

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主人公長吉の芸妓になった幼馴染お糸への思いを、隅田川両岸を舞台に、詩情豊かに描いた名作。
浅草を愛した文豪永井荷風は、何を描きかったのだろうか。

 

このことは、著者の訪欧と関係がある。『すみだ川』に描写された人物や光景は明治三十五、六年の頃のものだが、著者はその後、訪欧し6年ぶりに東京に帰ってきた。その月日の間に、東京も隅田川を取り巻く光景も変わってしまっていたのである。

 

著者は『第五版すみだ川之序」でこう述べている。
「隅田川はその当時目のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝えていたさまざまの伝説の美とを合せて、言い知れぬ音楽の中に自分を投げ込んだのである。……
自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である」

 

そして、この小説は意外な終わり方をしている。
推測にはなるが、著者はその後に展開されるストーリーが読めてしまったから、読めたストーリー通りにしたくないがために、展開を別の方向に持っていき結んでしまったように思えて仕方がないのだ。

 

 

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)

 

 

 

出世・就職に行き詰まったら、「被官稲荷」に行けば上手くいく

出世・就職に行き詰まったら、「被官稲荷」に行けば上手くいく

 

「被官稲荷」(ひかんいなり)という、一風変わった名前の稲荷がある。
三社祭で有名な三社さま(浅草神社)の横にひっそりと立っている。
「被官」は官を被る(こうむる)と考えてもらいたい。つまり、就職・出世にご利益があるということになる。

 

「被官稲荷」は幕末の町火消であり、侠客であり、浅草寺門番でもあった新門辰五郎が女房の病気が治るようにと山城(京都府)の伏見稲荷に祈願して、全快したお礼に建てた稲荷である。「新門」は伝法院新門の門番であったことに由来する。

 

なぜこの稲荷を「被官稲荷」と呼ぶのかは、実は明らかになっていない。浅草神社の公式HPも名称の由来は不明としている。

 

しかし、浅草生まれで浅草育ちの私には、いくぶん、新門辰五郎の気持ちもわかるような気がする。
町火消が、浅草寺の門番に抜擢されるということは、並大抵のことではないからだ。また、そこには門番というイメージとはまったく異なった権威の裏付けがある。

 

そして、新門辰五郎は上野寛永寺の覚王院義覚僧正から、浅草寺の掃除方も頼まれた。浅草寺は東叡山の管轄に属していたからである。掃除方は風紀上の取締役であるから、境内の商人や香具師(やし)に対して絶対な権限を有した。(矢田挿雲 昭和4年の『報知新聞』の記事参照)
すなわち、一介の町火消だった新門辰五郎が、公職の冠をいただくということは、当時は想像を絶することであり、有難さ、誇りといったものを表したのが名前につながったのではないかと、私は考える。

 

 

私は「被官稲荷」におまいりすることは、別の意味もあると思っている。
出世や就職に行き詰まったときに、効果があると思っている。
行き詰まるということは、打つ手、策が思いつかないということではないだろうか。
そんなときは、いくら考えても策は浮かばない。

 

そんな状態は、気分転換が必要なことを意味している。
そこで、気分転換がてら、浅草見物を兼ね、「被官稲荷」を訪ねるという意味が生まれる。
意外に閃くものがあるかもしれない。

 

たしかに、出世にも、昇進にも、就職にも、仕事や営業にも、コツやカラクリのようなものは存在する。
そんなものを知りたい人は、私が書いた本などを参考にしていただきたいが、多くの人は、そのコツやカラクリに気がつかないだけである。私がそんなものを知ったのも、ずっとあとからである。
「被官稲荷」に行って、気分を変えることにより、そんなコツやカラクリのようなものに気づくかもしれない。

 

そして、「被官稲荷」におまいりすることは、神頼みという手かもしれないが、策の一つではないか、と私は考える。
そんな策でも、一手を講じたということが、自分の心を楽にするし、自信にもつながっていくと考える。

 

突き詰めて考えれば、どの策が当たるかなんていうことは、誰もわからない。
重要なことは、策を次々と思い浮かべ、実行に移すことではないかと思う。
「やり足りていないこと」を思い浮かべ、消し込んでいくことが、出世にも就職にも、そして成功にもつながっていくと、私は考えるのである。

 

綾小路亜也

 

 

鳥居に新門辰五郎の名が刻まれている

 

「被官稲荷」

 

 

 

こっそり読まれています
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!
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本の目次

スマホで読む方法

 

 

 

 

◆仕事・営業・印象アップのコツ

なぜ「できる社員」はビジネスマナーを守らないのか

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印象アップに踏み切れない人が、ある日突然注目を浴びるハンコの押し方

 

 

 

◆メルマガ「本に書かれていないビジネスの流儀」の情報
http://shinyuri-souken.com/?p=28756

 

 

◆忙しい方のビジネス書選びの参考にしてください。
http://shinyuri-souken.com/?page_id=19062(ビジネス書書評一覧)

 

 

 

 

『図説 浅草寺ー今むかし』

図説 浅草寺―今むかし 図説 浅草寺―今むかし
金龍山浅草寺

金龍山浅草寺 1996-11

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編集・発行が金龍山浅草寺だから、浅草寺の公式本である。
浅草について、曖昧な知識をたしかにしようと思っている人には打って付けの本である。
しかし、中古本でしか入手できない。

 

この本の魅力の一つは、図、縁起が多く載っていることだ。
それにより、昔の浅草をイメージできる。

 

浅草寺周辺は、建物こそ変わったものの、仲見世、広小路(いまの雷門通り)、馬道などの通り自体は昔から変わっていない。ここが浅草の大きな魅力になっている。
そこで、この本にある魚屋北渓の『東都金龍山浅草寺図』(天保年間1840-44)を見てもらいたい。
いまの浅草の通りにぴったり収まっていることを確認できる。

 

注目すべきは、いま「並木通り」と呼ばれている「雷門」の大提灯前の通りだ。
人がびっしりと駒形方面から「雷門」に向かって歩いている様子がわかる。
これは、多くの人が船でやってきて、「駒形堂」あたりで上陸したことを示している。

 

 

この本の魅力は他にもある。
浅草寺境内には石碑が非常に多いので、ついつい見逃してしまう。
この本には、石碑の一つひとつが紹介されている。石碑一つひとつにはちゃんとした縁起があるので、それを知る上で、この本は貴重である。

 

また、注目すべきは、この本には「浅草寺と寺宝」が掲載されていることだ。寺宝は「絵馬」と「仏像・仏画」に分かれている。
「絵馬」は展覧会などなかった時代の江戸の絵師たちが自分の作品を発表する場だった。そのため、絵師たちは絵馬の画題に歴史的によく知られた場面・事件を選んだ。絵馬に表れた場面・事件を見るだけでも楽しくなってくる。「姥ヶ池伝説」、力士の土俵入りの姿も描かれているし、関羽なども画題に選ばれている。
「仏像・仏画」については、このような紹介がなければ、知ることがなかったと思う。

 

 

図説 浅草寺―今むかし

 

 

 

 

『浮世絵画集 名刹 待乳山聖天と周辺地域』

 

 

待乳山聖天を訪れたら、浮世絵展「待乳山と隅田川」をやっていた。
そこで購入したのが、この本である。

 

待乳山は江戸時代、風光明媚な名所として知られ、多くの浮世絵にも描かれている。
そして、多くの浮世絵が待乳山聖天、正式には本龍院 と言うが、所蔵になっていることに驚いた。

 

本龍院所蔵となっている浮世絵を紹介したい。
注目すべきは、浮世絵の構図が二つに分かれていることだ。
一つは待乳山自体を描いたものであり、もう一つは対岸の向島から見た待乳山を含んだ構図だ。
いずれも、たいへん美しかったに違いない。

 

待乳山上風景

「東都名所 待乳山上見晴之図」 文政~天保年間(1818~1844) 歌川広重 画

「隅田川八景 待乳山秋月」 文久元年(1861) 歌川広重 画

「東京名勝図会 待乳山」 明治元年(1868) 歌川広重 画

「待乳山図」(掛軸)(1652~1724) 英一蝶 画

 

向島より臨む待乳山

「待乳山雪景之図」(1862~1869) 二代歌川広重 画

「東都名所 待乳山 山谷掘 夜景」 安政4年(1857)8月 歌川広重 画

「東都名所 隅田堤花見之図」  文政~天保年間(1818~1844) 歌川広重 画

「東都三十六景 今戸橋 待乳山」 文久~2年(1861~1862) 歌川広重 画

「江戸八景 待乳山夜雨」 文化・文政期 歌川豊広 画

「大盡遊全盛揃 花廼ゆふばゑ」 明治4年(1871) 昇斎一景 画

「江戸名所 隅田川三周堤」  天保11~13年(1840~1842) 歌川広重 画

「江都八景 真乳晴嵐」 寛政9年~安政5年(1858)  歌川広重 画

「待乳山夕景」 明治期 井上安治 画

「待乳山竹屋の渡の春雨」  昭和5年(1930) 小林清親 画

 

猿若三座と待乳山

「江戸名所之内 待乳山」 天保14年(1843)~弘化4年(1847) 歌川広重 画

 

 

 

超難解小説『浅草公園』にチャレンジ!

超難解小説『浅草公園』にチャレンジ!

(※この記事は2017年11月21日に更新されました)

 

あの芥川龍之介も浅草を舞台にした小説を書いている。
その小説のタイトルは『浅草公園』である。

 

ただ、この小説は文庫版にして、たった21枚にすぎない。
おまけに、各段落に1、2、3、と番号がついている。
文の内容も何をいっているのか、さっぱりわからない。

 

しかし、タイトルの横にー或シナリオーと書かれていることにヒントはありそうだ。

 

 

『浅草公園』は日本のレーゼシナリオの代表作品に挙げられている。
レーゼシナリオは、映画脚本(シナリオ)の形式で書かれた文学作品で、レーゼドラマの一種といわれている。

 

つまり、この小説は、映画のようにいくつかのシーンがつながっていると考えるとわかりやすい。

 

それゆえ、各シーンには「柱」がある。
「柱」は舞台となる場所を指し示す言葉で、カメラを置く場所(撮影場所)と考えればいい。

 

だから、この小説は、
1 浅草の仁王門の中に吊った、火のともらない大提灯。
2 雷門から縦に見た仲店。
3 仲店の片側。
といったように、まず場所が示されている。(番号はシナリオ番号)

 

そう理解すると、
4 こういう親子の上半身。
66 斜めに上から見おろしたベンチ。
といった表現もカメラからの視点ということで理解できる。

 

 

この小説の解説も見てみよう。
解説には次のように書かれている。

 

「浅草公園で父と逸れ、不安に揺れる少年の心情を、浅草公園の風景の断片と重ね合わせて、短いショットを連続させるスタイルを採る。猥雑なエネルギーを孕む浅草公園の風景は、谷崎潤一郎や室生犀星が好んで取り上げたが、押し寄せる不定形の現実に、芥川が晩年に採用した方法の一つは、『年末の一日』の『詩に近い』『純粋な小説』『「話」のない小説』とともに、イメージの断片を繋ぎ合わせ、それを集積する方法であった」

 

非常にわかりにくい解説だが、要は、この小説で、芥川龍之介はレーゼシナリオという手法を使ったということだ。

 

この小説を読んだ読者は、得体のしれない不気味さを感じる。
また、主人公の少年の気持ちになって、言いようのない不安も覚える。

 

それこそが、著者の狙いだったということだ。
まさにシナリオが見事に功を奏したということになる。

 

 

年末の一日・浅草公園 他十七篇 (岩波文庫)

 

 

この小説の舞台に一つとなっている浅草六区
迷子になった少年は、この六区で何を感じたのだろうか?

 

2017年9月30日

『ぼくは浅草の不良少年ー実録サトウ・ハチロー伝』

ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝 ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝
玉川 しんめい

作品社 2005-01

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「ちいさい秋みつけた」「リンゴの唄」の作詞で有名な、詩人サトウ・ハチローは転校8回、留置所入り30回以上の浅草一の不良少年だったというのだ。

 

きっと、再婚した父への反抗、仙台へ帰った実母への思いなど、胸中複雑なものがあったに違いないが、この本に出てくるサトウ・ハチローは豪放磊落というか、自由奔放というか、喜劇の塊のような男である。

 

池袋警察署の新築落成式に呼ばれて、お酒を飲んでの帰り池袋で暴れて、昼間来賓として出席した警察の留置場へ、その晩は開設第一号としてぶち込まれた話

 

ニセ学生として美術学校に潜り込み、「新入生はここに並べ」と上級生の訓示までたれ、教授には友だちの作品を見せ、教授から「肩のところがちいっとまずいなァ」と言われると、友だちの作品にもかかわらず、肩の部分の粘土をごっそりもぎとってしまう話

 

結婚しても吉原通いをし、花魁の子供の勉強まで見て寝泊まりしているうちに、「浅草吉原揚屋街十二番 佐藤八郎」と表札までかけられてしまう話

 

木馬館の女の子「おしィちゃん」に恋をし、親には「この頃乗馬をやっています」と嘘を言い、木馬館のメリーゴーランドの馬にばかりまたがり、ラムネ売りの婆さんに「おしィちゃん」への仲介を頼んだところ、その婆さんが「おしィちゃん」の母親だったという話…… など、笑い転げるような話が満載だ。

 

そして、「あたしがね、ある年の春の野球大会へ立教中学のユニホームを着て出たんです。その年の春の終わりの大会の時は、高輪中学のユニホームを着て出たわけです。その次に夏の大会の時は藤沢中学のユニホームを着て出たんです。そうしたらアンパイアをやっていた佐々木という慶応の人が、『お前、そうユニホームを変えてくるなよ』」という話に、なんと天皇陛下まで笑われてしまったのである。

 

この本を読むと、思わぬ収穫がある。
この本には。浅草オペラ、続く「カジノ・フォーリー」「新カジノ・フォーリー」のことがしっかりと書かれているからだ。
その後、レビュー劇場として再発足した玉木座で「プペ・ダンサント」が結成されたが、サトウ・ハチローはエノケンの友だちだったこともあり、「プペ・ダンサント」の総文芸部長となる。だから、浅草オペラ~カジノ・フォーリー~プペ・ダンサント、そしてエノケンのことを詳しく知りたい人には、この本はたまらない。当時の情景がありありと浮かぶはずである。

 

 

ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝

 

 

 

 

『潤一郎ラビリンス(9)浅草小説集』

潤一郎ラビリンス〈9〉浅草小説集 (中公文庫) 潤一郎ラビリンス〈9〉浅草小説集 (中公文庫)
谷崎 潤一郎 千葉 俊二

中央公論社 1999-01-18

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ラビリンスは迷宮といういう意味であり、複雑に入り組んだものの比喩表現である。
谷崎潤一郎は迷宮浅草に挑んだことになる。

 

この本には、『襤褸の光』『鮫人』『浅草公園』が収められているが、『襤褸の光』は短編、『浅草公園』は随筆であり、この本の大部分を占める『鮫人(こうじん)』は未完となっている。
『襤褸の光』は明治40年代、『鮫人』は大正7年の浅草公園を舞台にしている。

 

驚くことは、小説の大半が人物描写で占められているということである。特に顔の描写に力が入れれている。
2つの小説には共通点がある。それは、登場人物はみな浅草にやってきたということである。
『襤褸の光』に登場する若い女乞食も、画家に成り切れないAも成れの果てに浅草公園に落ちてきた人物であるし、『鮫人』の画家に成り切れない服部がたどり着いた地であり、歌劇団に属する人は、どこの生まれか育ちかはわからないが、浅草に寄り集まって生計を立てている人たちである。

 

著者は『鮫人』の中でこう言っている。
「怠け者で、金がなくて、意志が薄弱で、それでやはり贅沢な物質欲から自分を救い出すことが出来ない人々、そう云う人々がだんだんと社会の壓迫に追い詰められ、不平の餘り世を茶化したり拗ねたりする料簡になり、やけ糞半分から安価な享楽に溺れる為めに集って来る土地としては、浅草ほど究竟の場所はないのであるから。………
醜悪が醜悪そのまゝの姿で現れて居る浅草が、一番住み心地のいゝ場所だとも云えないことはないであろう。其処には下町の中心地や山の手にあるような虚偽や不調和がなく、醜悪がやゝともすると『美』に近い光を放って輝いて居る」

 

著者は、そんな素のままの浅草に惹かれ、相容れない要素が詰まった矛盾だらけの人物の顔に、浅草そのものを感じたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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