働く所も、楽しむ所も、住む所も一緒という幸せ

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先日、久しぶりに松山に行った。その時、私は人の幸せって、案外、こんなことかもしれないなと思った。
そのときの話にお付き合いいただきたい。

松山は、私が、かって4年間暮らした街だ。単身赴任をしていた。
松山を旅立つ日のことは、今でも鮮明に覚えている。淋しいというよりは、胸が苦しくなるような旅立ちだった。
本当に素晴らしい街だった。

それから、長い月日を経て、私はまた松山に行く機会に恵まれた。
「そんな素晴らしい街なら、しょっちゅう行けばいいじゃないか」と思う人も多いと思うが、なにか切なくて行けなかったのである。
それが、今度、ある用事で行くことになった。
松山空港から、道後温泉行のバスに乗る。
「私がいたときと、どうか変わらないでいてほしい」と願いつつ、窓からの光景に見入る。

 

……… 全然、変わっていなかった。
街を歩く人も、建物も、街が持つのどかな雰囲気もちっとも変っていなかった。
嬉しさがこみあげてくる。「ああ、来てよかった」と心から思った。
そして、私はあることに気づいたのである。
それは、まだ日が残る夕刻、私は、道後温泉から市電に乗った。
道後公園、南町、上一万、警察署前、勝山町を経て、市の中心である大街道に入っていく。
こんな市電が一定の間隔を保ちながら行き交いしているのである。
つまり、私のように、夕刻に食事などの楽しみに出かける人も市電に乗り、会社から家に帰る人も私とは反対方向だが、やはり市電に乗るのである。ちなみに道後温泉で一風呂浴びる人もこの電車に乗る。

 

4年間、見慣れた光景なのだが、気がつかなかった。
働く所は働く所、楽しむ所は楽しむ所、住むところは住む所ではないのだ。
正確に言えば、一定の区画で分かれているのだが、ともに市電で行き来できるくらいの距離なのだ。そしてともに松山なのだ。一体となっているのだ。
私は、「そういうことだったのか」と気づいた。
今までは、松山の魅力といったら、街が持つ情緒、美しさ、人の穏やかさ、食べ物のおいしさ等が混ぜ合わさったものだと考えていた。
確かにそれもあるのだが、この働く所、楽しむ所、住む所が一体となった生活の魅力なのだ。
生活が、しっかりと地面に足を着いて営まれているのだ。
都会のサラリーマンは、それが見事に分離されている。
たとえばこんな1日を送っている。
東京の郊外にある自宅を出発し、満員電車に乗り、大手町にある会社にたどり着き、会社が終わると、会社付近で飲むことも多いが、渋谷や新宿に遊びに行き、そしてまた込み合った電車で、自宅に戻る。
それが、私も含め当たり前だと思っている。
こんな生活だから、日曜日の夜ともなると、「さあ、明日からまた1週間が始まるぞ。今日は早く寝よう」と身構える。
松山の人には失礼に聞こえるかもしれないが、こんな身構えが、松山の人は薄いのではないだろうか。

 

もしかして、この住む所、働く所、楽しむ所が一体となっている方が、原点なのではないだろうか。
これが、暮らす、生活するということではなかったのだろうか。
それが、いつしか、分離されてしまい、それを当たり前と思うようになったのではないだろうか。
大きな表現になってしまうが、やはり、人間の原点は、この暮らす、生活するということではないのだろうか。
もちろん、都会で暮らすサラリーマンには、働く所、住む所、楽しむ所を一体とすることはできない。
しかし、原点に帰り、「暮らす」「生活する」ということをもっともっと大事にする必要があるのではないだろうか。
仕事も大事だけれど、この「暮らす」「生活する」という原点の方が大事なのではないだろうか。
そうすれば、きっと、1日が輝きを増し、潤いが出てくるのではないだろうか。

 

私は、松山に来て、人の幸せの原点に触れたような気がした。
みなさんは、どう思うだろうか?

 

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