言い訳を言おうと思ったら切りがなく言える

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前もってことわっておくが、ここでのテーマは、言い訳がいいとか悪いとかという話ではない。
むしろ、言い訳は事実に基づいた側面も確かにあるのである。
それならば、非常に難しいテーマではあるが、言い訳ってなんだろうということになる。
ここでは、それを考えてみたい。
言い訳を言おうと思ったら、切りがなく言える。これは真実である。
これは、どんな例でも実際に言い訳を考えてもらえば、次から次に言えることに着目してもらいたい。
そして、言い訳というものは、決して嘘ではないところがミソなのである。言っていること自体はあたっているのである。
このことにも着目してもらいたい。

 

拙著『サラリーマンの本質』では、不祥事を起こした人の言い訳も題材にしている。
次の例を取りあげている。
ある建設会社に勤める社員は、まったくいい加減な見積もりを作って問題となった。
「なぜいい加減な見積もりを作ったのか」と聞かれた社員は次のように答えている。
「見積もりを作る時間がなかった」それは、「作ろうと思った時に、会議があったからだ」と答え、続いて、「だいたい、今の上司は、指示事項が多すぎる。その対応に時間がかかる」「この職場自体もトラブルが多すぎる」と言い、それだから、「ちゃんとした見積書を作る時間がないのだ」と主張する。
その挙句に「上司に、『あの件の見積書はまだか』と怒鳴られたので、いい加減な見積書を作らざるを得なかった」と言うのである。

 

ここで重要なことは、彼が主張することは、事実としては確かに存在するということである。
確かに、その日に会議があったことも事実であるし、彼が所属する上司も細かく色々な指示を出すことも事実である。そして職場自体もトラブルが多いことも事実である。また、彼がいい加減な見積もりを作った日に、上司が怒鳴ったことも事実である。
「それならば、自分で色々時間をやりくりして、見積もりを作ればよかったじゃないか」と至極当たり前の意見が出そうだが、彼は、できなかった様々な事実を主張するのである。

 

私は、この例は、不祥事の典型的なパターンの一つだと考えている。
不祥事には、金銭の使い込み等の目的を伴ったものもあるが、自分のやるべきことをさんざん放置した挙句に、あることを実行する場合も多い。
例えば、この例のようにいい加減な書類の作成、虚偽の書類の作成、売上の架空計上等がある。
しかし、こうした場合、不祥事を起こした人は、事実に基づいて様々な言い訳を主張する。

 

さて、ちょっと視点を変えてみよう。 こんな例もある。
私の知り合いに、SNSやSEOというものにものすごく詳しい人がいる。
しかし、彼は、自分のビジネスではなぜか、利用しないのである。
その理由を聞いてみると、「なるほど」だと思う。
「今、違う仕事が立て込んでいる」「現在の仕事に精一杯取り組んでいるから、家に帰るとぐったりするんだよ」と言い、その挙句に「だいたいSNSやSEOというものは、専門家でなくては本当に有効な手段を講じ得ないものなんだよ」と言うのである。
聞いている方は、すべて「なるほど、なるほど」と思うのである。

 

しかし、一方では、新聞や雑誌を見ると、サラリーマンを続けながら、自分の特技である漫画を雑誌社に売り込み、そうしたことから漫画家になったとか、働きながら日経小説大賞に応募し受賞したとかの記事を見る。
確かに音楽家や小説家も、俄かにそうなったわけではなく、働きながら才能を蓄積し、デビューした人も多い。
小倉佳もそうだし、私の大好きな松本清張もそうである。
また、私の知り合いにも、働きながら資格を取ったり大学院に行ったという人もいる。
こうしたことに、「それは、その人だからできたんだよ」「最初から、才能があったんだよ」と言う人もあり、「だいたいこういう人たちは、みんな体が丈夫だ」「環境にも恵まれていたのかもしれない」と言う人までもいる。

 

もっと身近なことを言えば、サラリーマンでも家で本を沢山読んでいる人もいる。
サラリーマンでいながら、サッカーや野球、ラグビーの監督やコーチをしている人もいる。
休日に、テニスやゴルフをやる人もいるし、旅行にしょっちゅう出かける人もいる。
地域の会やボランティア、また俳句の会などの趣味の団体に入っている人もいる。
こうした人には、多分、「その人たちは余裕があるんだよ。お金もあるんだよ」「家庭で心配することがないからだ」と言う人もいるだろう。
確かに、家で両親や、子供の面倒を見なくてはいけない人も本当に多く存在するであろう。やりたくてもできない人も絶対にいることは間違いない。
また、本人の健康の問題も絶対に存在するのだと思う。

 

さて、今までのことを考えてみると、何がなんでかわからなくなってくる。
「やった」「やれなかった」という区分けをするならば、色々なことを「やった」あるいは「やっている」という人もある反面、今の環境下では、「到底できない」「やれない」という人もいるのである。
そして、この「できない」「やれない」には、それなりの理由が存在するのである。
しかし、先の不祥事の例は、確かに色々な事実も存在するが、業務として絶対にやらなければならないことであり、それを言い訳にしてはならないと考える。

 

ここで、私は、どんな場合でも言い訳を言わない人は成功し、充実した生活となるなんて野暮なことを言わない。
もしかしたら、言い訳という言葉自体が悪いのかもしれない。
この問題には正解がない。
しかし、言えることは、先の不祥事の例のような業務上のことは、いくら言い訳を挙げても、所詮はやらなければならないことであり、このやらなければならないことをどう処理したかに、矢は戻ってくる。
問題は、その他の場合である。
ここで私は、思うのである。
自分がそうしなければならないと思いつつもやらない場合、これが言い訳であり、現在の仕事の状況、家庭の状況、環境等で、そうは思わないときは、言い訳ではないのだろう。
仮に、「こうしたいな」と思っていても、現在の環境、家庭の状況、現在の仕事の状態から、とてもそんな状態ではないときは、言い訳なんていう言葉が浮かぶわけがない。
そう考えてみると、言い訳の矛先は、自分であると考えるのである。まさに言葉の意味通り、自分への弁明、弁解ということになる。
自分が目的を持っているにもかかわらず、自分で立ち上がらないとき、実行に移さないときは、自分の心に正直に聞いてみる筋合いのものである。その時、自分で判断するものである。
しかし、重要なことは、言い訳を言い出したら切りがなく言えるということにもぜひ、注意してもらいたい。

 

 

 

(参考)先の不祥事の例は、『サラリーマンの本質』第五議題「サラリーマンの悲劇」の中の4.「主体を見せない人」に記述している。
参考にしていただきたい。

 

 

 

 

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