終わりよければすべてよし

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サラリーマン社会の不思議な現象に、「終わりよければすべてよし」がある。
これはどういうことかというと、大変なトラブルを引き起こしてしまった場合でも、終わりがよければ、
「アイツ、頑張ったな」「よく持ちこたえた」「アイツの真の姿を見た」と、かえって評価が上がる現象を言っている。
問題が解決した時、必ず上司は、部下を呼び、「おまえ、よくやったな」と、心から労いの言葉をかけ、必ず慰労会すなわち飲みに行く。
その時の上司の顔には、安堵感が浮かび、心から上機嫌である。
そしてそのトラブルの収拾を境にして、上司は部下を好意的にとらえていく。
その後、トラブルを収拾した人は、現実に栄転することが結構多いのである。
また、組織でも同じことが言える。
大変なトラブル職場をなんとか持ち直したとか、混乱を収拾したときに大きなプラスポイントが、会社から、そして上司から与えられるのである。

 

だから、サラリーマン社会は、決して諦めてはいけない世界なのである。
よく異動の発表を受けて、「あんな大変な職場に回された」「あの職場は大変だぞ」「あの職場はトラブルだらけで有名だ」と嘆く人がいるが、実は、大きなチャンスが与えられたと言っても過言ではないのである。
物事考えようで、整然とした職場、成績がいい職場というものは、「こうした状態が当たり前」といった妙な了解が会社内にある。
言ってみれば、「よくて当たり前の職場」なのである。
ところが、大変な職場で、ちょっとでも違った兆候が出ようものなら、「ほら、アイツが行ってから変わってきたぞ」「よくやっているよ」と好意的なポイントが与えられるのである。
そう理解することは難しいという人もきっといると思うが、サラリーマン社会の現実の姿でもある。

 

さて、こうした現象を私はサラリーマン社会で目の当たりに見てきたことから、
『サラリーマンの本質』の中で、「溺れる者は藁をも離すな」という見出しを立てた。
これは、自分自身や組織が大変なピンチを招いてしまった場合、藁でもなんでもいいから掴んで離さなければ、最終的にはなんとかなる。収まるところに収まってくれるということを言いたかったからである。
ところが、現実には、大変な状況に陥っても、一向に平然としている組織や人がいるのである。
そのことに対する警鐘の意味も込めたのである。
例えば、ある担当者が、会社の重要な催しごとの会場の手配を失念していたとしよう。
もう、案内状を出さなければならない。そのリミットが来た。しかし、会場は押さえていない。
それこそ絶体絶命のピンチである。こんなことを社長が知ったら大変だし、出席を予定している人は、そろそろ案内状が来る時期だと思っている。
こんな時、みんなで、片っ端から会場を当たるのである。電話でも訪問でもそんなことは問題ではない。
とにかく、片っ端から当たるということが重要だ。
その結果、なんとか会場を手配できたとする。
きっと、その部門の上司は安堵感とともに、部下に評価を下しているはずだ。
「みんな、本当によくやった」「みんなの真剣な姿を見た」………。

 

このことは、元々は会場手配の失念という大変な失態から始まっている。
ところが、会場が手配されたと知ると、上司はこうして部下を評価するのである。
その際、会場が狭いとか、ちょっと汚いとか、不便だとかいうことは、あまり関係はなくなる。
とにかく、大変なピンチを克服したことそのものに焦点は移るのである。
すなわち、「終わりよければすべてよし」ということになるのである。

 

以上のことから、サラリーマン社会においては、粘りというものが本当に重要だということがわかる。
逆に言えば、大変なトラブルを引き起こしてしまった、大変なピンチを招いてしまった、あるいは、大変な職場に回されてしまった、こういう時が、まさにサラリーマンにとっては、正念場だということになる。
その時に、道は大きく二つに分かれる。
なんとか持ちこたえる道、そして諦める道。
選択した道により、会社や上司からの評価も大きく2つに分かれるのである。

 

 

 

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