満員電車の中のモアイ像

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私には、どうしてもわからないことがある。
それは、 朝の満員電車の中で、みんなと立つ向きが違う人がいることだ。

 

どちらを向こうが人の勝手だが、人と立つ向きが違うということは、満員電車のぎゅうぎゅう状態の中で、人と対面することになる。
まさに文字通りの対面となる。
人の顔の僅か10センチ前に、その人の顔があるからだ。
10センチと言えば、眼と眼が合うなんてそんな生易しい状態ではない。 それは、人の息を感じ取るといった間隔である。

 

それでも、その人は平然としている。
まるで、イースター島のモアイ像のように、無表情に立っているのである。

 

確かに、乗車降車の関係で、あるいは揺れて体が動いた結果、そういう状態になることはある。
しかし、仮にそうなったとしても、少し体を半身にすれば、ご対面は防げると思うのだが、 なぜ、その人はそうしないのだろう?

 

また、そんな状態になったらなったで、「すいません。こうなっちゃった」と少しでも照れた顔をしてくれれば、まだ救われるが、その人はしない。
ただただ無表情に立っているのである。決して、立つ向きを変えないのである。
そして、そういう人は、なぜか実直そうな中年サラリーマンに多いのである。
この人たちは、なぜ、気まずいという感覚を持たないのだろうか。不思議でたまらない。

 

そんな時、思うのである。
サラリーマンは、絶えず人への気遣いに疲れ、人との関係に悩んでいる。
少しでも会社に、上司に、同僚に、部下に、「よく思われたい」と思って悩んでいる。
上司や同僚が話す言葉の端々に、悩み、傷つく。

 

それなのに、一方では、このようなモアイ像のような人もいるのだ。
何か、毎日毎日、自分が悩んでいることがバカバカしく思えてくる。

 

しかし、意外に、これがサラリーマン社会の「原点」ではないだろうか。
サラリーマン社会には、色々な人がいるということなのだ。
いかに自分が思い悩んで傷ついても、自分とは違った感覚を持った色々な人がいるということなのだ。

 

そうすると、自分は自分、人は人という考えを持つべきではないかと思えてくる。
それならば、自分は自分で、人のことを気にせずに、やるべきことをシッカリやりさえすればいいんじゃないかと思えてくる。

 

そう思えてくると、いつも、「よく思われたい」と思っていた自分を変えなければならないと考えだす。
「よく思われたい」と思わなくてもいいんじゃないかと。

 

こう考えてくると、自分が持っていたモヤモヤ感がなにかすっきりしてくる。
今まで、人を気にしすぎ、毎回、飲み会への誘いに応じていた自分、毎朝、一刻も早くパソコンを立ち上げ、タイムカードに出勤時間を入れる自分。
その自分が変わっていくような気がしてくる。

 

 

(参考)『サラリーマンの本質 』 終章 サラリーマンへのすすめ 2.「よく思われたい」と思わない

新百合ヶ丘総合研究所HP 「サラリーマンへのすすめ
モアイ像

 

 

 

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