自分の知り合いの話は正しいと言い、人の知り合いの話は違うと言う人

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あなたの身の回りにこんな人はいないだろうか?
人が、「自分の知り合いはこんなことを言っていた」と話すと、「それは違う」と眼下に否定したり、思わせぶりに首をかしげるくせに、自分の知り合いの話は、100%正しいという前提で話す人。
また、自分が読んだ著名人、学者や哲学書が記した本のことは、「なかなかいいことを言っている」「いい」「その通りだ」と話す人。

 

考えてみれば、これほど相手に失礼なことはない。
もし、自分の知り合いの話だけは正しいと思うのならば、好きなだけ、自分の仲間内だけで語り合ったり、読書会でもやればいいのにと思う。
それが、人の話の成り行きを見守りながら、自分の出番を窺い、意見を言うからおかしくなるのだ。

 

こんな人は、サラリーマン社会、組織には必ず存在する。
いったい、こんな人は、何を目的としているのだろうか。
これでは、誰が聞いても、「自分はあなたとは違う人物なんだよ」と言っているようなものだ。
多分、こんな人は、こういうことを言いたいんだろう。
「自分の知り合いは、みな有名人だし、いろいろ活躍している。ところで、あなたにはそういう人いる?」「自分はこんな本も読んでいる。ところで、あなたは、どんな本を読んでいるの?」「自分はこんな素養も持っているけど、あなたはそうじゃないよね」………。
多分、相手との話の中で、自分が優れていることを浮き彫りにしたいのだろう。
もっと言えば、人の話を餌にして、自分の優越性を人に見せたいのだろう。
すなわち、人を馬鹿にして楽しみたいということである。

 

淋しい限りである。心が貧しい限りである。
その人は、自分の素養をアピールしたいのだけれど、こんな姿勢だと、その人が聞いたり、読んだり、学んできたりしてきたことは、まったく役に立たなかったことを自分で物語っているようなものである。
また、加えて言えば、それこそ、その人が引き合いに出す古今東西の識者は、「そんな人にならないように」ということを諭しているのである。
これでは、墓から怒って出てきそうである。

 

そして、こんなに自分のことを素養があると思い込んでいるのに、人が自分のことをどう見ているかということは、まったくわかっていないのである。
みんな、その人が言おうとしていることは、内容、表情、雰囲気から察しがついているのだ。
何もかもお見通しなのだ。
簡単に言えば、その人は、自分が得た価値観は人とは違うと言いたく、そして、その人の心の底には、自分が努力して得た価値観だけに譲れないという思いがあるのだろう。

 

自分のことをそれとなく示したり、 自分の知り合いのことや、自分が読んだ本のことなど引き合いに出す必要などないのである。
また、本の話でも、小説や話題の本、サラリーマンが読みそうなビジネス書なら、人に話しても、「うん、オレも読んだ。いいよな」と話題が弾むかもしれないが、古今東西の識者の教訓話を持ち出すから、ややこしくなるのである。

 

さて、人は、不思議なもので、普段は、自分の家族や知り合いについて、「うちの息子は出来が悪くて」とか「オレの友達はおっちょこちょいばかりで」と話すが、それは、親しみの表現なのである。
しかし、自分の家族や知り合いの話を否定されてしまうと人は面白くない。
なぜならば、家族や知人というものは、自分を取り巻く環境ということであり、すなわち、行き着く先はその人自身のことを示している。
すなわち、自分を取り巻く人の話を否定されるということは、自分を否定されることに等しい。
多分、前出の人物の目的も、つまり、相手を否定したいのであろう。

 

以上、思うことは尽きないが、社会のルールとして、相手の話、相手の知り合いの話を否定することはマナー違反である。
ここで述べたように、その行為は相手を否定することと同じである。
また、サラリーマン社会や組織では、そんな人は、最も嫌われるので注意する必要がある。

 

 

(参考)『サラリーマンの本質 』第五議題「サラリーマンの悲劇」の中の3.「見下しているつもりが見下されている上司」に、前出の人物像が出てくるので参照願いたい。

 

 

 

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