稼ぐ力

ちょうど今は、企業では、各職場に新入社員が配属された頃だと思う。
新入社員は、配属前に、きっと会社の就業規則、ビジネスマナー、会社の概要などを教えられたことと思う。
私は、なかなか企業では実現できないことかもしれないが、「稼ぐ」ということを誰かがしっかり教えるべきだと思う。

 

と言うのは、企業で働くサラリーマンはこの「稼ぐ」という意識が、自営で頑張っている人、独立起業人、経営者に比し、かなり希薄になるからである。
しかし、給料をもらうということは、「稼ぎ」をした結果であることは、忘れてはならないと思うのである。
つまり、「稼ぎ」という面では、サラリーマンであれ、自営業者であり、経営者であれ、なんら「差」はないのである。

 

注意したいのは、サラリーマン社会では、この「稼ぐ」という意味は、直接、営業で稼ぐという意味よりかなり広い。
きちっと仕事をして会社に貢献する、成果を上げ、その結果、給料をもらうという意味である。
たとえば、総務や経理、システム、業務などの内勤部門にいる人は、営業的には稼いでいないかもしれないが、間接的には企業の稼ぎに大きく貢献していることは、誰もが承知していることである。
そして、私が言いたいことは、たとえ、これらの部門で働く人も、自分がその部門で頑張り成果を上げることが、会社の稼ぎへの貢献であり、それが自分の「稼ぎ」なんだという意識を持つことが必要だということである。

 

ところが、サラリーマンを長く続けていると、いつのまにか、この「稼ぐ」という意識が希薄になっていく。
自分がきちっと仕事をしているから、「給料」という「稼ぎ」をもらっているという意味をだんだん忘れていくのである。
そして、いかにも、上司や顧客にソツがない対応をとれること、上手な報告をすること、会議で一味違った発言をすることが重要に思えてきて、それが自分の「仕事」のように思う人も多くなっていくのである。
ビジネスマナーもそうである。ビジネスマナーをしっかりこなせるということは、顧客から好感をもたれ、それがしっかりとした仕事につながることを目的としているにもかかわらず、いつのまにか、ビジネスマナーをこなすことが「仕事」のように思えてくるのである。

 

要は、私たちは、なにかの「仕事」をして、なにかを生み出しているから、「給料」という「稼ぎ」をもらっているにもかかわらず、知らず知らず、何も生み出さないものの方に関心を向けていくのである。
そして、ビジネス世界の評価は、シンプルだが厳しいのである。
いかに外資系コンサルタントが提唱する問題解決法を振りかざそうが、理屈をこねまわそうが、寸分隙ないビジネスマナーをこなそうが、「結果」や「仕事」のあとが見えない人には容赦なく厳しいのである。
これが、サラリーマン社会の評価であり、ビジネス社会の評価なのである。

 

だから、わたしは、新入社員には、このビジネスの原点ともいう「稼ぎ」を誰かがしっかりと教えておいた方がいいと思うのである。
そして、もし私が会社の人事職員だったら、こんなことを教えたいのである。
それは、一生懸命、もの作りに励んでいる人、工場で汗をかきながらわき目も振らず自分の作業に没頭している人、店頭で顧客対応を懸命にやっている人、ビジネスマンで足早に次の訪問先に急ぐ人………
そこには、「稼ぐ」原点があるからである。

 

ビジネスの現場に出るということは、自分自身で「稼ぐ」ということである。
この「稼ぐ力」というものがないと、サラリーマン社会はおろか、ビジネス社会では生きていけない。
そして、新入社員には、この「稼ぐ力」というものを、ぜひ養ってもらいたいと思っている。

 

 

 

 

綾小路亜也のビジネス書
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!

なぜ「できる社員」はビジネスマナーを守らないのか

企業で働く 営業女子が輝く35のヒント

サラリーマンの本質

 

 

 

働く所も、楽しむ所も、住む所も一緒という幸せ

先日、久しぶりに松山に行った。その時、私は人の幸せって、案外、こんなことかもしれないなと思った。
そのときの話にお付き合いいただきたい。

松山は、私が、かって4年間暮らした街だ。単身赴任をしていた。
松山を旅立つ日のことは、今でも鮮明に覚えている。淋しいというよりは、胸が苦しくなるような旅立ちだった。
本当に素晴らしい街だった。

それから、長い月日を経て、私はまた松山に行く機会に恵まれた。
「そんな素晴らしい街なら、しょっちゅう行けばいいじゃないか」と思う人も多いと思うが、なにか切なくて行けなかったのである。
それが、今度、ある用事で行くことになった。
松山空港から、道後温泉行のバスに乗る。
「私がいたときと、どうか変わらないでいてほしい」と願いつつ、窓からの光景に見入る。

 

……… 全然、変わっていなかった。
街を歩く人も、建物も、街が持つのどかな雰囲気もちっとも変っていなかった。
嬉しさがこみあげてくる。「ああ、来てよかった」と心から思った。
そして、私はあることに気づいたのである。
それは、まだ日が残る夕刻、私は、道後温泉から市電に乗った。
道後公園、南町、上一万、警察署前、勝山町を経て、市の中心である大街道に入っていく。
こんな市電が一定の間隔を保ちながら行き交いしているのである。
つまり、私のように、夕刻に食事などの楽しみに出かける人も市電に乗り、会社から家に帰る人も私とは反対方向だが、やはり市電に乗るのである。ちなみに道後温泉で一風呂浴びる人もこの電車に乗る。

 

4年間、見慣れた光景なのだが、気がつかなかった。
働く所は働く所、楽しむ所は楽しむ所、住むところは住む所ではないのだ。
正確に言えば、一定の区画で分かれているのだが、ともに市電で行き来できるくらいの距離なのだ。そしてともに松山なのだ。一体となっているのだ。
私は、「そういうことだったのか」と気づいた。
今までは、松山の魅力といったら、街が持つ情緒、美しさ、人の穏やかさ、食べ物のおいしさ等が混ぜ合わさったものだと考えていた。
確かにそれもあるのだが、この働く所、楽しむ所、住む所が一体となった生活の魅力なのだ。
生活が、しっかりと地面に足を着いて営まれているのだ。
都会のサラリーマンは、それが見事に分離されている。
たとえばこんな1日を送っている。
東京の郊外にある自宅を出発し、満員電車に乗り、大手町にある会社にたどり着き、会社が終わると、会社付近で飲むことも多いが、渋谷や新宿に遊びに行き、そしてまた込み合った電車で、自宅に戻る。
それが、私も含め当たり前だと思っている。
こんな生活だから、日曜日の夜ともなると、「さあ、明日からまた1週間が始まるぞ。今日は早く寝よう」と身構える。
松山の人には失礼に聞こえるかもしれないが、こんな身構えが、松山の人は薄いのではないだろうか。

 

もしかして、この住む所、働く所、楽しむ所が一体となっている方が、原点なのではないだろうか。
これが、暮らす、生活するということではなかったのだろうか。
それが、いつしか、分離されてしまい、それを当たり前と思うようになったのではないだろうか。
大きな表現になってしまうが、やはり、人間の原点は、この暮らす、生活するということではないのだろうか。
もちろん、都会で暮らすサラリーマンには、働く所、住む所、楽しむ所を一体とすることはできない。
しかし、原点に帰り、「暮らす」「生活する」ということをもっともっと大事にする必要があるのではないだろうか。
仕事も大事だけれど、この「暮らす」「生活する」という原点の方が大事なのではないだろうか。
そうすれば、きっと、1日が輝きを増し、潤いが出てくるのではないだろうか。

 

私は、松山に来て、人の幸せの原点に触れたような気がした。
みなさんは、どう思うだろうか?

 

DSC02988

終わりよければすべてよし

サラリーマン社会の不思議な現象に、「終わりよければすべてよし」がある。
これはどういうことかというと、大変なトラブルを引き起こしてしまった場合でも、終わりがよければ、
「アイツ、頑張ったな」「よく持ちこたえた」「アイツの真の姿を見た」と、かえって評価が上がる現象を言っている。
問題が解決した時、必ず上司は、部下を呼び、「おまえ、よくやったな」と、心から労いの言葉をかけ、必ず慰労会すなわち飲みに行く。
その時の上司の顔には、安堵感が浮かび、心から上機嫌である。
そしてそのトラブルの収拾を境にして、上司は部下を好意的にとらえていく。
その後、トラブルを収拾した人は、現実に栄転することが結構多いのである。
また、組織でも同じことが言える。
大変なトラブル職場をなんとか持ち直したとか、混乱を収拾したときに大きなプラスポイントが、会社から、そして上司から与えられるのである。

 

だから、サラリーマン社会は、決して諦めてはいけない世界なのである。
よく異動の発表を受けて、「あんな大変な職場に回された」「あの職場は大変だぞ」「あの職場はトラブルだらけで有名だ」と嘆く人がいるが、実は、大きなチャンスが与えられたと言っても過言ではないのである。
物事考えようで、整然とした職場、成績がいい職場というものは、「こうした状態が当たり前」といった妙な了解が会社内にある。
言ってみれば、「よくて当たり前の職場」なのである。
ところが、大変な職場で、ちょっとでも違った兆候が出ようものなら、「ほら、アイツが行ってから変わってきたぞ」「よくやっているよ」と好意的なポイントが与えられるのである。
そう理解することは難しいという人もきっといると思うが、サラリーマン社会の現実の姿でもある。

 

さて、こうした現象を私はサラリーマン社会で目の当たりに見てきたことから、
『サラリーマンの本質』の中で、「溺れる者は藁をも離すな」という見出しを立てた。
これは、自分自身や組織が大変なピンチを招いてしまった場合、藁でもなんでもいいから掴んで離さなければ、最終的にはなんとかなる。収まるところに収まってくれるということを言いたかったからである。
ところが、現実には、大変な状況に陥っても、一向に平然としている組織や人がいるのである。
そのことに対する警鐘の意味も込めたのである。
例えば、ある担当者が、会社の重要な催しごとの会場の手配を失念していたとしよう。
もう、案内状を出さなければならない。そのリミットが来た。しかし、会場は押さえていない。
それこそ絶体絶命のピンチである。こんなことを社長が知ったら大変だし、出席を予定している人は、そろそろ案内状が来る時期だと思っている。
こんな時、みんなで、片っ端から会場を当たるのである。電話でも訪問でもそんなことは問題ではない。
とにかく、片っ端から当たるということが重要だ。
その結果、なんとか会場を手配できたとする。
きっと、その部門の上司は安堵感とともに、部下に評価を下しているはずだ。
「みんな、本当によくやった」「みんなの真剣な姿を見た」………。

 

このことは、元々は会場手配の失念という大変な失態から始まっている。
ところが、会場が手配されたと知ると、上司はこうして部下を評価するのである。
その際、会場が狭いとか、ちょっと汚いとか、不便だとかいうことは、あまり関係はなくなる。
とにかく、大変なピンチを克服したことそのものに焦点は移るのである。
すなわち、「終わりよければすべてよし」ということになるのである。

 

以上のことから、サラリーマン社会においては、粘りというものが本当に重要だということがわかる。
逆に言えば、大変なトラブルを引き起こしてしまった、大変なピンチを招いてしまった、あるいは、大変な職場に回されてしまった、こういう時が、まさにサラリーマンにとっては、正念場だということになる。
その時に、道は大きく二つに分かれる。
なんとか持ちこたえる道、そして諦める道。
選択した道により、会社や上司からの評価も大きく2つに分かれるのである。

 

 

 

綾小路亜也のビジネス書
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!

なぜ「できる社員」はビジネスマナーを守らないのか

企業で働く 営業女子が輝く35のヒント

サラリーマンの本質

 

 

 

サラリーマンの服装

服装については自分自身で考える問題だ。私がとやかく言うことではないと思っている。
しかし、サラリーマンの服装は、実は、ビジネスの世界では極めて重要な要素である。
服装というと、とかく営業の人の服装をイメージしがちだが、営業の人、内勤の人共通の問題であることも理解してもらいたい。
こんな重要な問題に対して、日本のビジネス書では語られることは少ないが、私の知る限り、安田正氏の「仕事の哲学」にこのことが記載されていた。
「首元」という見出しで「平社員は、安物やファッション性の高いもの 部長は、奥さんに選んでもらっている 役員は、たいてい長いネクタイをしている」と書かれている。その他「足元」「手元」という見出しで、平社員、部長、役員となる人の特徴を記述している。
この内容が根源的なものか、その区分けと内容が適切なものかどうかは、読者のみなさまの判断に任せることとして、ここでは言及をしたくはない。

 

ところが、外国の方が書いた本には、この服装について詳細に述べられているのである!
ジョー・ジラード氏の「営業の神様」の中で、ルール6「適切な装い」の中で詳細に述べられている。
ジョー・ジラード氏は車のセールスマンであり、なんと15年間に13、001台の車を販売したギネスブック認定の世界一の営業マンである。
私は、いままでは、この種の本を読むことは少なかった。
皆様と同じかもしれないが、経営学や経営戦略の本を読みあさった時期もあった。もちろん、そこで得たものは大きかった。
続いて、世のビジネス書にどんなことが書いてあるかと読みあさった。
そして、その中で、「セールス」という文字が見えると、どちらかといえば敬遠していたのである。
正直に心を吐露すると、何か、「セールス」というと、経営学や戦略本から一段階、次元が落ちたような気がしたのである。
また、所詮、個性が強いセールスマンが書いた本というイメージがつきまとっていた。

 

しかし、本の選択さえ間違わなければ、下手な非現実的な指示を送る世のビジネス書よりも、よほど参考になることに気がついた。
また、営業こそが、どんな企業においても存立の基盤であることの認識を深くしていったのである。
そして、『サラリーマンの本質』の中でも、「営業の本質」という大見出しを立て、この重要な問題に真向かいしたつもりでいる。

 

さて、服装について本題に戻そう。
ここからが長年サラリーマンを経験してきた私の本音である。

 

結論から言うと、「こざっぱり」とした服装であればいい。
ブランド品とか、いい物とかはあまり関係がない。これは自己満足の世界だと思っている。その人がいいと思えばそれでよい。
しかし!ここで重要なことは、周りの人や外部の人からどう見られているかということである。
私は、「こざっぱり」としていれば、スーパーで売っている1000円台のワイシャツで一向に構わないと思っている。
ネクタイだって、そんな高いものはいらない。
ただし、念を押すようだが、「こざっぱり」としていることが必要十分条件である。

 

このことを、どうして感じたかというと、我々自身が客となった場合の経験を考えてみるとわかりやすい。
何か、よれよれの服装をしたセールスマンからアプローチを受けた場合、ちょっと距離を置きたくなったことはないだろうか。
それは、その人自身を否定するという感覚ではなく、何かその人が追い詰められた人のように見えるからだ。
営業というものは不思議なもので、「追い詰められた人」から他人は、決して買おうと思わない。
『サラリーマンの本質』でも、営業の世界では、「二兎を追うものは三兎をも得る」と書いたが、営業に行き詰まり、残された数少ない見込み先を必死に刈り取ろうと思っているときは、まず成約とはならない。これが逆に、「この見込み先、来月でもいいや」と思っていると、成約してしまう。
つまり、営業の世界では、売る側の心の「余裕」というものが必要なのだ。

 

その意味で、私は、「こざっぱり」とした服装が必要だと言っている。
お客さまと対等な関係を築くには,「こざっぱり」とした服装が必要だと言っている。お客さま以上のものはいらない。

 

内勤部門で働くサラリーマンにとっても、同じだ。
内勤部門には、必ず地味だが、堅実に職務をこなす職員がいる。
実は、私は、こうした職員が大好きだが、服装まで地味になりすぎていることはないだろうか。地味になりすぎるというよりは、「まったくこの人服装には関心がないよな」と思わせる服装をしていることはないだろうか。
この点も、私がとやかく言う問題ではないが、また根源的な問題ではないが、こわいのは、周りの人がその人に対して、イメージを作ってしまうことにある。その人の外観上のイメージでその人の発言、提案を受け止めてしまうということがないだろうかと心配している。

 

その人の服装について私が論じる資格はないが、ちょっとイメージチェンジを試みたらどうであろうか。
ここでイメージチェンジというと、すぐに真っ赤なネクタイとは考えないでもらいたい。
逆効果になることがよくあるからだ。私は、先日ある温泉に行った。そこに息子家族に連れられた、おとなしそうなおじいちゃんがいた。
優しい息子家族から多分外出用に買ってもらったであろう真っ赤なセーターを、そのおとなしそうなおじいちゃんは着ていた。
しかし、残念ながら、そのことがかえっておじいちゃんの年を浮き彫りにしてしまっていた。
こうしたことから、自分でもちょっと地味だなと思う人は、極端に変えないで、まずワイシャツをブルーにするなどから始めたらいいと思う。
そのうち、少しずつ自分自身で変えていくはずだ。

 

 

服装が重要であることは、他人は、まずそこから判断するからだ。つまり人の評価の第一関門がそこにあるということだ。
仮にその人の内容や中身、あるいは提案内容がしっかりしたものであったとしても、第一関門が大きく前途を塞いでしまう。
もちろん、その人の根源的部分は、その内容にあることは間違いない。しかし、その内容に入る前に第一関門が塞いでしまう。
これだけは、絶対に防がなければならない。
言い換えるならば、早く内容に入ってもらうために、服装という第一関門を突破してもらうということである。

 

この辺の身構えについては、前述のジョー・ジラード氏の「営業の神様」に詳細な記述がある。
是非、参考にしていただきたい。
『サラリーマンの本質』やこのブログが、サラリーマンの現実的な問題の解決策を探求するということをコンセプトとしているので、敢えて言及した次第である。

 

pic_g3242

 

 

 

綾小路亜也のビジネス書
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!

なぜ「できる社員」はビジネスマナーを守らないのか

企業で働く 営業女子が輝く35のヒント

サラリーマンの本質

 

 

 

失敗という免疫

サラリーマンなら誰しも、失敗を経験する。その中には、取り返しのつかない失敗をしたと感じた時もあったはずだ。
そして、失敗をすると、誰しもが深く落ち込む。
そこには、本人にしかわからない苦しさがある。他人に言えない苦しさがある。
しかし、そんな失敗や落ち込みは、サラリーマン生活を長く続けていると、何度も何度も経験することになる。
確かにその度に落ち込むのだけれど、その度に強くなっていく。
それは、あたかも、失敗という免疫を持つかのようだ。

 

この失敗という免疫の中身を表現することは難しいが、
それは、多分、取り返しのつかない失敗をしてしまったときでも、最後には、「なんとかなった」「なんとか乗り切った」あるいは、「なんとか耐えしのいだ」ということを、頭というよりは、体が覚えているということではないだろうか。
このことを逆説的に言うならば、失敗を重ねてきた人は、免疫を持っているということになる。
そして、免疫を持っているから、仮に次の失敗が到来しても、またなんとか乗り切ることができる。
つまり、打たれ強いということになる。もっと端的に表現すると、強いということになる。
そう考えてみると、失敗という経験を持つことは、非常に大切ということになる。

 

そう、長く苦しいサラリーマン生活を乗り切るには、人間としての強さが必要なのである。
そしてその強さは、失敗から身に付けていくものではないかと思う。

 

よく世の中では、失敗を「得難い貴重な経験」と言う人がいる。それはそうかもしれないが、私はそんなきれいな表現をするつもりはない。
失敗した人は。失敗してそんなことを思うはずは絶対にないからだ。
もしこの言葉を感じるとしたら、それは、ずっとずっと先になってからだ。
私が言うのは、失敗しても、投げやりになったり、前途を悲観することはないということだ。
失敗しても、当座は大変だけれども、サラリーマン社会では、最後には絶対になんとかなる。
失敗が非常に大きかった場合は、時の経過とともになんとかなる。このことだけは頭に置いてもらいたい。
しかし、それには、1つだけ条件がある。
それは、失敗したと思ったら、必死にあがいてもらいたいということだ。
あがきにより、少しでも最悪の事態を避ける。この踏ん張りが重要である。
そして、このあがきを見て、周りの人は絶対に助けてくれるはずだ。

 

失敗は、できるだけ避けた方がいいに決まっている。そしてそうならないように努力することが重要だ。
しかし、失敗した場合でも、絶対になんとかなると信じて、その場で、その時に、頑張ってもらいたい。
ここで、頑張ることができたなら、それは人が言う、のちのちその人の財産となり、その人の強さになるのである。

 

 

(参考)『サラリーマンの本質 』第二議題「現場への指導は三つのみ」の中の3.「溺れる者は藁をも離すな」を是非参考にしてもらいたい。
取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったと思う場合でも、最後の踏ん張りさえしっかりしていれば、なんとかなるものである。
ここでは、もしなんとかならないものがあるとしたら、それは唯一健康のみと記述している。

 

 

 

 

綾小路亜也のビジネス書
ビジネスマンが見た出世のカラクリ 出世はタイミングで決まる!

なぜ「できる社員」はビジネスマナーを守らないのか

企業で働く 営業女子が輝く35のヒント

サラリーマンの本質