浅草おかみさん会の「勇気!」「やる気!」「元気!」

「浅草おかみさん会」会長冨永照子さんのことを知らない浅草っ子はいない。

 

冨永照子さんは2001年に『おかみさんの経済学』という本を書いている。
中古でしか手に入らなくなった本だが、この本を読むと、いまの浅草の繁栄の原点がくっきりと浮かび上がってくる。

 

昭和55年に浅草で「サンバカーニバル」が始まった。
昭和56年には、浅草ー上野間で2階建てバスが走った。
昭和61年に浅草六区に「ROX」が建った。
昭和62年に、ニューオリンズジャズを呼んだ。
平成2年に営団浅草駅の地下広場に壁画が作られた。
平成6年「振袖学院」が設立された……。

 

これらは関係各位の努力により生まれたものだが、すべてに、冨永照子さんはじめ「浅草おかみさん会」が深く関わっているのだ。いや、「浅草おかみさん会」がなかったら実現しなかったと言っていい。

 

 

本にも書かれていたが、浅草は昭和39年の東京オリンピックを境にみるみる衰退していった。
テレビが普及し始めたからだ。それまでの浅草は六区の映画娯楽を中心とした街だったから影響をまともに受けた。
オリンピック以前は、「浅草で映画でも観るか」と人は集まり、映画を観た人は観音さまにお参りし、おいしいものを食べ、お土産を買って帰っていったのだ。
テレビの普及とともに、若者文化というようなものも生まれた。渋谷、新宿で遊ぶことがかっこいいことになり、若者は浅草には見向きもしなくなった。

 

そんな浅草のさびれている姿を、私は体で記憶している。
夜、仲見世の商店街が早く閉まり出した。私は悔しくて親にかみついた。
正月も三が日を過ぎると、潮のように人が引いていった。三社祭が終わった後もそうだった。
私は無念でたまらず、寂しくなった観音さま境内を一人で歩き回った。
六区では、歩く人もまばらになった。
吾妻橋や駒形橋の欄干に手を乗せれば、埃だらけだった。
街中、すすけてしまったのだ。

 

 

ところが、その後、「浅草でサンバをやるぞ」という話が飛び込んできた。「そんなバカな」と誰もが信じなかった。立て続けに「浅草でロンドンバスが走るぞ」という話も舞い込んできた。
「ニューオリンズジャズをやるぞ」という話も聞こえてきた。「なんだい、そのニューオリンズジャズって?」とみんなが言った。
このころから、浅草は、なんだかわからないが、「何か」をやる街に変身していったのだ。
それが、この本に書かれていることだ。

 

もちろん、「そんなもの浅草に合うか!」という声も起きた。「だから、おまえの頭は固いっていうんだ」という声も飛び交った。
いままでは議論する材料もなかったが、このころから、浅草の人はしきりに議論し、言い合いをするようになった。
議論、言い合いは、浅草が本家本元のようなものである。お家芸だ。
こんな議論、言い合いをすることにより、浅草に活気がよみがえってきた。大江戸以前からのプライドが首をもたげた。

 

 

いまにしてみれば、すべて、やってよかったのだ。
いまの浅草の繁栄ぶりが、それを示している。街も見違えるほどきれいになった。
若いカップルも楽しそうに浅草の街を歩き、外国から来た観光客も心から楽しそうだ。街中が、楽しそうな人でごった返している。
2020年の東京オリンピックで日本を訪れた観光客の目玉になることは間違いない。
そんな風格も、浅草は十分身に付けた。

 

だが、いまの浅草に至る道は険しかったに違いない。
この本を読むと、「浅草おかみさん会」はじめ、浅草のために尽力した人の労苦を思い胸が熱くなってくる。

 

 

「浅草おかみさん会」は、「浅草観光案内図」の看板作成から始めた。
自分たちが、いま、できることから始める。ここが重要だったのだ。
この看板作成がなかったら、「浅草おかみさん会」のその後も、浅草のその後もなかったかもしれない。
要は、どんなときも、「やるか」「やらないか」の選択肢しかないのだ。
そして、「ローマは一日にして成らず」だ。
そのとき、そのときで、できることをやった結果がいまの浅草なのだ。

 

 

驚くことに、冨永照子さんは、本を書いた当時、21世紀のことをこう予言している。
「21世紀は、『競争』を越えて、『協創』の時代よ。つまり、力を合わせて新しいものを創り出さなきゃいけない時代なの。そして、それには、女性の感性や特性が、とっても重要になると思うのよ」

 

それから17年あまりの月日が経つが、まさに、いま課題になっていることではないか。
冨永照子さんの慧眼(けいがん)に、恐れ入ったとしか言いようがない。

 

「浅草おかみさん会」には真実が詰まっている。
「浅草おかみさん会」のモットーである「勇気!」「やる気!」「元気!」である。
世の中、どんな理屈をこね回しても、どんなに難しいことを言ったとしても、最終的には、「勇気」「やる気」「元気」しかないではないか。
逆に言えば、「勇気」「やる気」「元気」さえあれば、ことはなるのである。
「浅草おかみさん会」のパワーをもらい、頑張っていこうではないか!

 

 

最後に、なぜ「浅草おかみさん会」なのか説明しておきたい。
私は拙著『浅草のおかあさん』の冒頭で、
「浅草といえば、伝統の技や芸を守り抜いている男衆に目が行きがちだが、そんな男たちを支えてきたのは、他ならぬこのおかあさんたちである」
第14話「浅草の夫婦」で、
「普段は威勢がいいが、いざというときに意気地がなくなる男と、どんな相手にもけっして動じない女との組み合わせ、これが浅草の夫婦である」
と書いた。
浅草では、最終的には、おかあさんが「やる」と言ったらやる。おかあさんが「やらない」と言ったらやらないのだ。
もちろん、浅草の亭主たちは口を出す。しかし、日頃、商売を支えてくれているのは、おかあさんたちだという負い目もあって、最終的には「おまえの好きなようにしろ」になってしまうのだ。
そんなおかあさんたちは、けっして楽ではない。自分が決めたことは、自分で責任を持たなければならない。だから頑張るのである。

 

 

「浅草のおかあさん」と呼ばれた一人の女性は、突然旅立ってしまった。
お通夜は弔問客でごった返した。
お清めの料理を、冨永照子さんが経営する「十和田」が出してくれたことを、感謝と共に、申し述べておきたい。

 

綾小路亜也

 

 

 

おかみさんの経済学―女のアイデアが不景気をチャンスに変える! (角川oneテーマ21)

 

 

 

 

浅草に「浅草のおかあさん」と呼ばれた女性がいました

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2018年6月8日